帰省のおわり【第十六話】

2016年 9月2日

地元〜東京

 8月も過ぎ、ゆっくりとした秋の足音が聞こえてくるのは私だけではなかろう。流石に紅葉や落ち葉がという季節ではないが、8月が終わったという既成事実そのものが、秋の薄ら寂しい気分を演出しているのだ。
 私も今日、実家をあとにして東京へ帰る。先輩は半月程の滞在期間でしっかりと私の両親に気に入られ、このままでは本当に私の婿となりかねない様相を呈し、私は毎日を恐怖しながら実家泊まりを体験した。
 父は先輩を息子の様に可愛がり、一緒になってキャッチボールをしたりした。
「息子がいたら、毎日キャッチボールしただろうな」と、クタクタになるまで先輩と遊んだある日の夜、酒に酔った父はそう発言した。先輩は嬉しそうに目を細め肩を貸し、千鳥足の父を寝室のベッドまで運んだ。
 母は毎日豪勢に夕食を用意した。私が実家にいる頃はこんな食事は出てこなかっただろう。地方公務員とはいえ昨今の給与事情を鑑みれば、だいぶ厚い内容だった。無理をしたのではないかと心配になった。
 
 駅まで両親が見送りに来てくれた。大学以外は学校が既に始まっており、早朝の駅には学生服を着た少年少女が多くいた。夏休み明け特有の憂鬱な表情をしながら、彼らは沼地に入り込んだ冒険者のように重い足取りでそれぞれの場所へ向かっていく。
 ゴトリと身を震わせ電車は発車し、上りと下りしかない寂しい駅のホームで手を振る両親の姿は、あっという間に見えなくなった。私はシートに深くゆっくりと座り直し、正面に座る先輩を見た。先輩はじっと私を見ていた。その視線に何かを感じようと努力のようなものをしてみたが、結局そこに何かを感じることはできなかった。
 電車が県境を超えようとするとき、先輩が寝入った気配を視線の端に捉えた。流れゆく景色を見ながら私は私の世界に没入していく音が聞こえたような気がして、今回のことを思い返す時間が来たことを知った。

 今回の帰省で綾香に会うことはできたし、消えた理由も知ることができた。しかしそれと同時に、既に私と綾香の間に決定的な何かがあるのも知ってしまった。綾香本人にその感覚があるのかどうかは分からないし聞いたところで答えないだろうが、確実に「死」が綾香を侵食しているのを私は感じてしまっていた。
 もちろんそれは病気で「死ぬ」という意味ではなく、人間としての大きな意味合いでの「死ぬ」ということだろうと思う。日本のみならず、世界中で3,670万人の感染者がいるが、その多くの人が綾香のようだとは思わないしポジティブに生きている人もいるだろうが、私的な感覚で言えば綾香はそうではないようだ。
 そのような事実を、私はどんなふうにして受け入れたらいいのだろうか。止まっていた時間は動き出したのだが、会えば元通りになる、少なくともネガティブから脱却できるのではないかと期待していた私の予想を遥かに超えた結果となっているのだ。こんな理由であるということを、正直予測していなかった。同性愛は良くないとか、そういう二人力を合わせればなんとかなるような理由だと思っていたのだ、私は。
 とにかく、時間は容赦なく動き出してしまったのだ。それは豪雨のあとの鉄砲水のような、そんな抗えない運命の流れに私は感じた。

 東京駅についたのはお昼回っての13時頃だった。サラリーマンのランチ時間も終わり、少し人の減った駅の近辺は、半月前と何ら変わらないように感じた。でも、期待を胸に秘めてここを出発したときとは、どこか風景が違うようにも感じた。
「さてと、家まではもうちょっとだ。バスあるかな?」
「あの、先輩」私はバスの時刻を調べるために歩き出した先輩を呼び止めた。
「ん?」先輩は振り返った。
「ちょっと、ここらへんでご飯食べません? お腹空いちゃったんで」
「あぁ、確かに」腕時計を見て、先輩は時間を確かめた。「どっかで飯食うか。ちょっと調べるわ」
 先輩がスマホを出して調べ、私達は近くにあったイタリアンの店に入った。私はパスタを注文し、先輩はピッツァを頼んだ。でも、なんだかそっけない味に感じてしまった。ただ空腹を満たすだけの義務的な生命維持の行動に過ぎない。
 食事を終え私達はバスに乗り、暫く揺られたあと、「都南大学学園通り北」のバス停で下車した。
「さて、ここから別だな。気をつけて帰れよ。帰るまでが帰省だからな」
「先輩こそ、追い剥ぎに会わないでくださいよ」
「会うわけ無いだろ。俺のほうが強いよ」
 そう言うと先輩は手を振り背中を向けて歩き出した。
「先輩!」私は殆ど無意識で声をかけた。
「どうした?」
 私は先輩に言わなければならない。私一人ではどうにもならなかった事が、あっさりと動き出したのだ。どれもこれもこの人の行動力のおかげなのだ。
「ありがとうございました。先輩のおかげで、その、私なりにスッキリしました」
 先輩は少し笑って私の前に戻り、頭に手を置いた。
「俺はいつだってお前の味方だし、そのつもりだよ。お前の為ならなんだってしてやる。いつでも相談なりなんなりしてこいよ」
 そう言って先輩は帰っていった。

 自宅に戻り半月ぶりに窓を開けると、部屋が大きく深呼吸したように思えた。私は荷物を片付けてからそよ風の入り込む居間に座ると、空の青々とした色合いが目に飛び込んできた。綿菓子のような雲がそこに浮かび、じっと私を見下ろしていた。そしていつまでもそこにあった。
 そんな変化のない時間を過ごしていると、伸縮性のあるゴムのスクリーンに私を中心とした周囲の風景が映り、それが遥か彼方へゆっくりと、しかし確実に伸びていってしまうような錯覚に陥った。時間も退行していき、現在から太古の昔にまで伸びっていってしまう。音もなにもかもが、遠くに消えていった。
 そして私は、誰かが泣いているのを聞いた。すすり泣き、時に嗚咽を漏らし、微かに泣いているのだ。そしてそれは私のために泣いているんだと本能的に感じた。悲しくもどこか優しく、私を想い、私を憂いているように聞こえた。
 きっとそれは綾香だ。嬉しくても悔しくても悲しくても可笑しくても泣く。それらの多くの感情一つに込めた、綾香の泣いている声だ。私は綾香を探したけれど、声は四方八方から聞こえて、どこにいるのかわからなかった。私は今すぐに綾香を抱きしめてその涙を一緒に流したくて走り出したが、辺りには闇が濃密に広がり、どこまで走っても姿はおろか近づくこともできなかった。
 次第に走り疲れその場に座り込み、私は声を上げて泣いた。泣いて泣いて、そして私は魂まで枯れてしまったのではないかと思った。もうその時には涙も無くなり、口の中は乾き、鼻水すら出なくなっていた。
 とたんに、私は布団の上で目が覚めた。枕は水を被ったように濡れ、目尻からは乾いた涙が線になって残っていた。

 オレンジ色の空を仰向けで見上げながら、私はただ一言「悲しい」と口に出してみた。

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