雨降りの東京。夕陽は未だ差さず【第十八話】

2016年 12月7日

東京

 秋も過ぎ、忍び寄る殺意のように本格的な冬が迫っている。暖冬で雪が降らないのだが、カレンダーは容赦なく十二月だったし、誰がなんと言おうとそうなのだろう。私は今月が実は十一月なんだとか五月なんだとか思うのはいつの日かやめた。思うと思わずに関わらず、時は前にしか進まないからだ。
 私にはとにかく思案する時間があり、心の休養を落ち着ける時間もあった。ゆっくりと流れる時間の中を、私はたまに思い出したように落ちる鍾乳洞の水滴の如く、じっくりと時間を過ごした。
 伸びていく自分の周りの景色や、ぐるぐると回る天井も、どれも見ることはなくなった。でも、なにか大切なピースを失してしまった私は、どうにもならない時間を無為に過ごしている気がしてならなかった。
 今でも雨が降ると思い出すのだ。綾香の事を。

 夕方を前にした窓の外はしっとりと降る雨に泣いている。地面が濡れ、空の涙でアスファルトの色が変わる頃には、雲の上で輝く太陽を懐かしんでいる私が部屋の中で取り留めもない視線を天井から床へ這わしている。そして時折外を通る車の音がとても耳障りになるほど、私は神経質になっていた。
 にも関わらず、それが呼び鈴だと気がつくのに時間が掛かった。一度鳴らし、二度鳴らされた数秒後に我に返った。三度目が鳴る時に腰を上げ、四度目の呼び鈴でドアを開けた。
 何を期待したのだろう。もしかしたら、と思いながら油断してドアを開けると、そこにはしつこい揚げ物のような笑顔で、布団のセールスマンが立っていた。布団の中の羽毛が違うんです、カバーもお付けしますよ。そう言う彼を押し返し、私はドアを無理に閉めた。少しして向こうから舌打ちが聞こえた気がしたのだが、それは気のせいだとした。そんな事にいちいち興奮しているほど、私には余裕がない。
 トイレから出て居間に戻ろうとした時、また呼び鈴がなった。流石に私は腹が立った。鍵を開けて蹴破る勢いでドア開けると、そこには驚いた顔をした先輩が立っていた。
「おいおい、どうした。気が立ってるのか」
 私は、何も言わずに扉を閉めた。
「待て待て。そう邪険にするな。優しい俺が、お前の様子を見に来てやったんだぞ」
「そうですか、でも頼んでません」
「知ってるぞ」
 それだけ言うとドアをこじ開けて先輩は勝手に上がり込み、冷蔵庫にダイエットコーラをしまい、何やら食材を勝手に押し込んだ。まるで我が家にいるような先輩を、私は玄関から見ていた。
「どした、ほら。座ろうぜ」
 私は先輩に引っ張られるように居間へ戻り、テーブルを挟んで座った。
「どうだ、調子は」
「あんまりいいとは言えませんね」
「そうか」
 そう言って私達は黙り込んだ。
「ほら、飲めよ」
 ガラスのコップにダイエットコーラを注ぎ、私の前に置いた。泡が弾け、テーブルに小さい針の先のようなシミをいくつも作った。
「ほら」
 先輩が言うので、私は仕方なく飲んだ。仕方なくだったが、久しぶりに飲んだコーラは美味しかった。
「先輩、大学はどうしたんですか?」
「そらもう、サボりさ」
「単位は大丈夫なんですか?」
「割と俺は有能だぜ。心配しなくて大丈夫」
「そうですか」
「俺の単位より、お前自身を心配しろよ」
「私も単位は問題ないですよ」
「違う」
 じっと心を射抜くように先輩は私を見た。もちろん先輩の言わんとしていることはわかっているし、それを心配してここに来ているのも分かってる。私も素直に、ありがとうございます、と言えばいいものを、どうにもはぐらかしてしまう。ここまでしてくれている先輩に対して、私は少し心がチクリと傷んだ。
「お前が、心配なんだよ」
「……分かってます。すいません」
「いいよ。お前のことだ、素直じゃないだけだ」
 先輩は私の頭をくしゃくしゃと撫でた。

 台所に立つ先輩の後ろ姿を見ながら、なぜこの人が女でなくて私は男じゃないんだろうと考えた。女っぽい人が男で、男っぽい人が女。どこかで起こっている不釣り合いな事のしわ寄せが、私達のような人間に来ているような気もする。綾香もそうなのだろう。私と一緒に生きたかったし、肌も重ねたかったかもしれない。でも世界のどこかで私利私欲を貪る誰かのために、彼女は不幸にもしわ寄せの対象となり、それを嘆いて死を選んだのかもしれない。
 そう思うと私は、先輩も綾香も私も、誰かの幸せの残滓から生まれた不幸の上にいるような気がした。

 テーブルにはいつもよりもまともな食事が並んだ。大根の煮物、わかめの酢の物、生姜焼き、豆腐の味噌汁、沢庵。私がまともに料理しなくなって働きをサボっていた胃が香りに反応して活発に動き出し、腹の虫が鳴いた。部屋に響いて、先輩は笑った。

「ちゃんと食え。それで、しっかり生きろ」
 温かいお茶を飲みながら過ごす夕食後の時間の中で、先輩はそう言った。テーブルに頬杖をついて、私の顔を修理から帰ってきたばかりの時計を眺めるように、じっと私の顔を見ていた。
 私はなんとなく恥ずかしくなり目を背けた。
「ちゃんと食べてはいますよ」
「ホカホカ弁当? ハンバーガー? 惣菜?」
「……」
「それはな、食事とは言わないよ。ちゃんと人の手で栄養のあるものを作り、それを豊かな心で食べる事を食事と言うんだ。人の手はもちろんそれらにも掛かっているとは思うが、そこには仕事上作らなければならないという義務感しか残っていない。でも、俺がお前に作るときは違う」
「どう違うんですか?」
「お前の事を想って作るんだ」
 よく結婚の口上として「お前の作った味噌汁が毎朝飲みたい」というのがある。それはその延長線上で、言い方を変えたものだ。
 先輩はそう言って私の頭をまた、くしゃくしゃと撫でた。

 綾香がいなくなってから私の側には誰もいなかった。でも、後ろで見守ってくれている人はいつもいた。それに気が付かないふりをして、甘えてきたのもまた事実だ。知らず知らずにこの人の大きい存在感に自分を委ね、安心感を得て、そして一つの目的を達することができた。
「俺はお前が苦しむのをどうしてもほっとけなかった。お前は俺に似てたから」
 私を後ろから抱きしめ、先輩は言った。
「お前を幸せにしてやれれば、俺は俺なりにあいつへの罪滅ぼしになるんじゃないかって考えて、それでずっと側にいたんだ。でも、いつしかお前そのものが、大切になっていったんだ」
 私は黙って聞いていた。
「お前の地元に戻って綾香さんに会っただろ? 実はその後、二人で会ったんだ」
「二人で、ですか?」
「いや、勘違いするなよ」先輩は焦って言った。「綾香さんが俺に伝えたいことがあるって言ったんだ。それで、会ったんだ」
「綾香はなんて?」
 先輩は考えるように少し間を起き、ゆっくりと口を開いた。
「『あなたが側にいれば、私は安心できます。私がいてあげれない分、お願いします』って言われた。それと『祐奈の事が好きなのは気がついてます。だからこそ、あなただったら安心できるんです』とも言われた」
 私は何も言わなかった。なんと言っていいかわからなかったからだ。
「だから、俺はお前の側にいるよ。俺の気持ちとしても綾香さんの気持ちとしても、同じなんだ。あとはお前が決めてくれないか」
 
 私は考えた。すぐには出そうにない告白だったが、それはまだ私が私に対して素直になれないとか受け入れられないとか、そういった受け手の心理状況なのだ。

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