ある日の日常と「私」【第八話】

2016年 7月17日

東京 自宅

 暑い、とにかく暑い。特に裕福ではない私は、とにかくエアコンはつけまいとしていたが、雨が降って湿度がとにかく高い今日に限っては流石に誘惑に負けそうだった。外は無遠慮な雨音が窓を叩き、外出すら許さない。3連休の中日でそもそも外に出る気力もないので、今日は家で過ごすと決めているのだが、これだけサウナのような状態になるとは思ってもみなかった。
 湿度と温度に押さえつけられているような体をムクリと起こすと、頭から汗が流れた。ショートパンツから伸びた脚は少し赤みを帯びて、畳の跡がついている。そのままじっと外を眺めるが、そこは一面グレーの景色しかない。その間にも汗はダラダラと、こめかみやうなじへ流れている。
 流石にこのままでは脱水状態になる。私はじっくりと立ち上がり、冷蔵庫から缶のダイエット・コーラを取り出して、3口程で飲みきった。人目もはばからずゲップをすると、急に年老いてしまった新橋のサラリーマンのような気分になった。
 缶をゴミ箱に投げ捨て引きっぱなしの布団のそばにある鏡が目に入った。そこには大汗を流しながらTシャツとショートパンツでウロウロする、覇気のない女が写っていた。あぁ、私は女だった、と再確認をする。近づいて顔を見る。手を頬に当てるとかなり火照っていて、赤みを帯びている。湿度のおかげでしっとりと頬は濡れ、特有の粘り気があり、鏡の中の私は茹で上がっていた。
 こう見ると我ながらそんなに悪い顔はしていない。もちろん読モができるほどの造形ではないだろうが、普通にいい顔立ちだと思う。だが、今の今まで私は彼氏ができたことはないし(当り前ではあるが)、男性から告白されたこともない。誰にも抱かれたことはないし、抱いたこともない。後にも先にも、恋人と言えるのは綾香だけだった。今、私の周りをついて回っているのは、性的に不安定なあの男だけだ。
 しばらく鏡を見ていたが止めどなく溢れる汗を見ていて、流石にこのままでは死んでしまうと思った私はエアコンを最低温度で最高風量にし、服と下着を洗濯機へ放り込んで回してからシャワー室へ飛び込んだ。
 低めの水温のシャワーは体にこびりついた火照りを引きはがしながら排水溝へ流れていった。

 シャワーを終えてスッキリとした私は、いつものように裸で室内をウロウロしていた。冷房の風が刺すように肌をなおも冷やしていく。私はいつからこんなにおじさん化してしまったのだろう。
 昔からおしとやかな淑女ではないが、さすがに裸でウロウロした事はない。実家を出てここへ住み始めてからなのは火を見るより明らかだった。特に見せる相手もいないからだ。もしここに綾香が一緒にいたとすれば少しはおしとやかだったかもしれない。とりあえず私は服を着た。
 時計を見ると13時過ぎだった。長身と短針は刻々と時間を刻んで、外の雨音と混ざって微妙なコンチェルトを奏でている。昨日の夜に炊いて、冷えて固まったご飯をレンジに入れて温め、マッシュルームと水で戻したわかめとで簡単なピラフを作った。食後には買っておいたチーズケーキを食べた。一緒にブラックコーヒーを飲むと、少しは陰鬱な気分も晴れた気がした。

 昼から夕方に変わっていく時間帯は、どことなく寂しい時間帯だ。朝から降っていた雨は上がって、少しずつ雲の切れ間から夕日が見え始めていた。雨上がりで少し煙った街に切れ間から夕日が差し込むと、天使の梯子が掛かった。
 私は夕方が好きだった。夕方というのは綾香と二人っきりで好きなことができる時間だったからだ。学校が終わってお別れするまでの約2、3時間が私の全てだった。
 体も冷えて雨で気温が下がったところを見計らって、窓を開けてエアコンを止めた。それでも爽やかな風がベランダから台所の窓へ抜けた。風が出ていたので玄関のドアも開けた。さっきより多くの風が舞い込んだ。
 座ってじっとしていると風が私の体を優しく撫ぜながら纏わりついていく。でもそれはいつまでも私の側にはいない。風は縛られるのが嫌いなのだ。私に囁くように息吹を吹きかけてからゆっくりと離れ、律儀に玄関から出ていく。私はそれを見送って、次から次へと訪問してくる風を迎え入れていった。

「おい」
 一瞬私はそれが何なのか理解できなかった。もう一度「おーい」と話しかけられてやっと、誰かが玄関から私を呼んでいるんだと気づいた。
「なんでここにいるんですか、先輩」畳に脚を放り出して後ろ手を付いたまま振り返る。
「暇なんでな。ちょっと上がっていいか?」
「だめです」
「これ買ってきたのに?」
 コンビニで買ってきた缶のダイエット・コーラとサンドイッチと数種類のつまみみたいなものを、私に見せた。「それならいいですよ」私は差し入れとダイエット・コーラに弱かった。「それなら早く、玄関締めてとっとと入ってください。誰かに噂されたら嫌なんで」
「いいじゃないか、噂されたって」玄関を締めて先輩が上がり込んだ。
「嫌ですよ」
 先輩はケラケラと笑いながらビニールから出したダイエット・コークを冷蔵庫へしまい、居間のテーブルに残りの物を置いてから私の目の前に置いた。
「今日は暑かったな。雨もすごかったし」
「そうですね。さすがにエアコンつけましたよ。死ぬかと思いました」
「あの暑さじゃな。命には変えられん」
 そのあとしばらく先輩は談笑し、飯を作ってやると台所へ立った。背中のリュックから出した食材は人参、玉ねぎ、ごぼう。それをかき揚げにしてくれた。
 先輩は今現在、私の近くにいる人間の中で一番に信頼できて、一番心が素直になれる人間だった。なんだかんだと毒づくこともあるが、それは素直になれない部分だと自覚している。それは彼も理解していて、私がそんな態度になる度に可愛い後輩だと思っていると、前に私に言った。
 
 先輩が家をあとにしたのは19時頃。
 早く帰ってくれてせいせいします。とか言いながら割と時間を楽しく過ごしていたと言うのが私の本音だったし、先輩もきっとそれに気づいているに違いない。そういう人なのだ。
 彼を見送ってから、食器を洗って乾燥機にかけ、窓を半分閉めてラジオをかける。私はテレビというものをほとんど見ない。故に俗世に疎いのだが、全くそれを不便に思ったことはない。ニュースはネットで見れるし、ファッションにも、興味はない。それよりも純粋に音楽だけを流し続けるラジオ番組のほうが、私にとって一番の安らぎだった。
 部屋の電気を消して暗くし、ラジオの音を少し絞ると、私に与えられる様々な情報は限りなく少なくなる。そうすると自分の内面へと入り込んで行って、意識の渦に落ち込んでいく。そしてその渦の中で、自分との対話ができるようになる。
 さっき二人で食べたかき揚げの匂い、窓から忍び込む風と遠くのバイパスの車の音。ラジオから小さく流れるビーチ・ボーイズの「カリフォルニア・ガールズ」。どこかの部屋の住人が玄関扉を閉める音。それらの情報が次第に遠ざかり、最後には「私」という自我だけがそこにぽつんと現れる。
 今は、そんなに悲観的な顔をしていない。ゴールデンウイークが終わって帰ってきた時、「私」の顔は見えなかった。モヤがかかったようにぼんやりしてそれが本当に「私」だったのかさえ定かではない。だが、今の私は、余裕があるのがよくわかる。次に進もうとしているのがよくわかる。

 ラジオからクリームの「クロス・ロード」が流れているのに気づいたときには、私は「私」から離れていた。薄明かりの中で時計が21時を指していた。特にすることもないので、私はスマホを手に引きっぱなしの布団の上に寝転んだ。おそらくこのまま夢へと落ちるだろう。
 
 それは私の休日という日常だった。
 

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