分水嶺【第十五話】

2016年 8月21日

「私がエイズに気づいたのは、たしか小学校の3年生の頃だったかしら。原因は母子感染だった。薬害エイズ事件って知ってる?80年代の終わりにあった、血友病の治療に使われる非加熱製剤による感染事件なんだけど、母さんが血友病でね。それでエイズに感染したの。今では血友病の治療には加熱製剤が使われてるから心配はないけれど、昔はエイズそのものの認知度が低かったのかもね。私も危ないんじゃないかって調べたらしっかり感染していたわ。それ以来、エイズ治療拠点病院に指定されてるのこの中央病院へかかりつけになったの。薬の処方と通院自体は月に一回ほど。母さんは薬害エイズ事件の被害者だというのはエイズは発症するまでの潜伏期間が長くて気付かなかったんだけど、私の場合は発見が早かったから、無症候性キャリア期で止めれている。だから実際はエイズ患者ではないの。昨日あなたに説明する時に「無症候性キャリア期なの」って言っても分かりづらいだろうって思ってね。とはいえ発症していないだけで感染自体はしてるからね。母さんはここに入院していて、私は一人で暮らしてる。あのアパートよりもっと安いところに移ったの。信じられる?あの場所より安いところがあるなんて。…これが、あるんだなぁ」

「仕事?してるわよ。…あぁ、あなたに教えた就職先は、全くの嘘。ごめんね。電話もラインもメールも、あなたと私が繫がる物を全て切ってしまったのも理由があるの。手紙読んだのならなんとなく分かってるだろうけど、私にも人並みに、その、性欲だってあるわ。あなたが信じるかどうかは別だけれど。それを断ち切る為にそうしたの。気をつけていても、性行為での感染は100%防げるものじゃない。あなたにそんな危険な事させられなかった。あなたがそうでも同じ事を思うんじゃない?未練を断ち切るっていうのかしらね。プラトニックな関係を維持する自信がなかった私の身勝手な行為よね、それで結果としてあなたの心に深い傷を負わせてしまった事に今になってとても後悔してるの。本当よ。あの手紙は…本当は捨ててしまおうかとも思った。でもあれは私の未練だったのね。運に任せるつもりであなたの教えてくれた東京のアパートの住所を書いて貼っておいたの。業者か次の住人が送ってくれるかもしれない、でも捨ててしまうかもしれない。とりあえず運任せ。でもここまであなたに行動力があるとは思わなくてびっくりした」

「これからの事?そうね、私はこれからも治療というか抑制を続けていかなければならないし、油断もすきもないのよ。この病気も今では『死の病』ではなくなってきたけれど、『不治の病』であるのには変わりないわ。投薬をやめるわけにはいかないし、…好きな人と肌を重ねることもできない。いっそ死んでもいいと思う事もあったしね。でも、あなたが諦めずに私を想い続けてくれた事に感謝してる。今こうして再び会えて、生きる気力が生まれてるのも事実。こんな事ならあなたに正直に打ち明ければよかったと思ってる。良かれと思ってもあなたを傷つける結果で終わってたんだから。自分に自信がなかったのよ。もし打ち明けてあなたに拒否されたらどうしようって。私の浅はかな考えだったわ、ごめんなさい」

「それにしても彼。あなたの先輩。よくここを嗅ぎつけたわね。たしかに市内では2件しかエイズ治療拠点病院はないとはいえ、さっきも言ったけど、私の通院自体は一か月に一回ほどだからすごく運がいいのね。あなた、彼の事が好きなの?…違う?そう、でも視野に入れてもいいと思うわよ。一回しか会ってないけど、すごく思慮深い気がする。多分、あなたに兄がいたら、彼みたいに世話を焼くと思うわ。だってあなたってどこか母性くすぐられるもの。なんだろうほっとけないっていうか。彼もあなたをほっとけないのよ。目を離したすきにふらっといなくなってしまう、そんな感じかしら。あなたの側に彼がいるのなら、私も安心ね。それにしてもあの手紙、思ったより早くあなたの元へ着いたのね。…え、違う?あらあら、彼って犯罪者一歩手前なのね」

 綾香はそこまで話すと疲れた様にしばらく呼吸を置いた。私達の座る喫茶店の席の横の窓からは、暑さを伴う光が隣のビルを使って間接的に入り込み、テーブルの上のコーヒーとミルクと砂糖を光に包んでいる。私には光が当たっていたが、綾香の座る場所は影になっていた。
 たった五ヶ月程だ。たった五ヶ月程会わなかっただけでこうも印象が変わるのだろうか。いや、それは私の見方のせいかも知れない。本当は何も変わりが無いのかも知れない。でも、実際になにか違うように思えるのだ。
 人には、決定的な分水領がある。そこを超えてしまうと人は自然と無意識に死へ向かって歩いて行ってしまう。そこから抜け出すには誰かの助力が必要なわけだけれども、綾香にとって、私という存在がその誰かだったのだろう。おかげで死へと向かって歩くのは止める事ができたが、それでも生に向かって歩いているわけではないのだ。
 綾香は確実に「その場に留まり続けている」

 私は先輩と連絡を取ってこの喫茶店に来てもらった。綾香がちゃんと話をしてみたいといったのだ。先輩はそれを快く承諾し、しばらくしてからやってきた。手には買ったと思われる本があった。
「本ですか?」
「あぁ、ちょっとね」そう言うと先輩は綾香に向き直った。「改めまして、──と申します。すいませんね、この場に呼んでもらって。お邪魔かと思って遠慮したんですが」
「いえ、そんなことないです。ここまで祐奈を導いてくれてありがとうございます」
 いえいえ、と言って先輩はウエイターにアイスコーヒーを注文し、私の隣に座った。
「ちょっと、なんで私の隣に座るんですか?」
「お前と俺の仲だろ?」
「これじゃあ、私と先輩がカップルみたいじゃないですか」
「向こうに座ったら俺と綾香さんがカップルみたいになるだろ。お前はそれでいいのか?」
「それは嫌です。座らずにそこに立っとけばいいじゃないですか」
 ふざけるな、と先輩は言うと、そのやり取りを見ていた、綾香はクスクスと笑った。

「本当は悩んだんですよ」結局私の隣に座った先輩は、おしぼりで手を拭きながら呟いた。「こうする事が祐奈の為にはなるだろうけれど、綾香さんの為にはならないんじゃないかって。特に一緒にここまで来てあの手紙を見て、余計にそう思いました」
「あなたは、予想がついたんですね」
「ええ。祐奈から話を聞いている段階から、薄々気づいてはいました。僕も昔、エイズで大切な人を亡くしているので。僕の中では、綾香さんの行動に納得できるところがありましたから」
 そうでしたか、と綾香は言った。
「でも、祐奈の思いつめた顔を見ていられなかったんです」
 外からの光が傾き始め、綾香にかかる影が濃くなっている。そして我々の座る席にかかる光もまた、濃かった。
 外では暑そうにサラリーマンがハンカチで汗を拭い、主婦が日傘を指して日光から身を守っていた。光の下に出て自分を苦しめる人、影を作り自分を守る人。光と影はポジティブとネガティブの象徴でもあるが、双方に付与された意味は、その時々の立ち位置で変わってしまう。
 もはや私と綾香の間には、決定的なしるしがあるような気がしてならなかった。

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