弁護士 村松弘康

北海道最大規模の村松法律事務所 所長 弁護士。早稲田大学卒業。陸別町生まれ。 札幌弁…

弁護士 村松弘康

北海道最大規模の村松法律事務所 所長 弁護士。早稲田大学卒業。陸別町生まれ。 札幌弁護士会所属 村松法律事務所 https://www.muramatsu-law-office.com/

最近の記事

「農法選択の自由」を勝ち取った「りんご無農薬裁判」を語るPart.4

札幌弁護士会所属 村松法律事務所 所長 弁護士 村松弘康です。 昨年12月、北海道札幌市にある弊所事務所で収録した元・被告で、現在、北海道仁木町で自然栽培農業を実践し続けている、江本達雄さんとの対談Part4です。 前回までの内容は、以下をご参照ください。

    • 「農法選択の自由」を勝ち取った「りんご無農薬裁判」を語るPart.3

      札幌弁護士会所属 村松法律事務所 所長 弁護士 村松弘康です。 昨年12月、北海道札幌市にある弊所事務所で収録した元・被告で、現在、北海道仁木町で自然栽培農業を実践し続けている、江本達雄さんとの対談Part3です。 今回は、江本さんに、私、村松との出会いの経緯や、周囲から「農薬を使うよう説得を受けた」話し等、当時を振り返ります。 前回までの流れは、以下をご覧ください。

      • 農法選択の自由を勝ち取った「りんご無農薬裁判」 | Part.2

        札幌弁護士会所属 村松法律事務所 所長 弁護士 村松弘康です。 昨年12月、北海道札幌市にある弊所事務所で収録した元・被告で、現在、北海道仁木町で自然栽培農業を実践し続けている、江本達雄さんとの対談Part2です。 今回は、当時、無農薬栽培でリンゴ栽培にチャレンジするのは、かなり珍しかったように思います。木村秋則さんとの面識もなく、江本さんは独自で自然栽培のりんご栽培に挑みました。その理由について伺ってみました。

        • 「農法選択の自由」を勝ち取った「りんご無農薬裁判」を語るPart.1

          札幌弁護士会所属 村松法律事務所 所長 弁護士 村松弘康です。 先日、北海道札幌市にある弊所事務所で収録した元・被告で、現在、北海道仁木町で自然栽培農業を実践し続けている、江本達雄さんとの対談をご覧ください。 30年前に北海道余市で起こった事件で、「奇跡のりんご」で有名になった木村秋則さんとの出会いも、この事件がきっかけです。木村さんも今ほど有名ではありませんでした。 しかし、この事件がきっかけで、日本の農業を変えていくことに関わる始めました。 <関連記事>

        「農法選択の自由」を勝ち取った「りんご無農薬裁判」を語るPart.4

          裁判の使命は、人権と社会正義を守り、人間の尊厳を守ることにある〜北海道金属じん肺訴訟との出会い④

          札幌弁護士会所属、村松法律事務所所長 弁護士の村松弘康です。 前回の続きです。 北海道には国のエネルギー政策の拠点として、かつて243の金属鉱山と、140の炭鉱が存在していました。 じん肺患者こそ、今ある日本の繁栄を地底から支えてきた人たちなのです。 会社は「コンニャクを食べればじん肺は防げる」「じん肺はナマケ病だ」と言い、粉じんの危険性を語ることはありませんでした。裁判では、すでに時効が成立しているから損害賠償金を支払う義務は無いとも主張しました。 「人間の怒りと

          裁判の使命は、人権と社会正義を守り、人間の尊厳を守ることにある〜北海道金属じん肺訴訟との出会い④

          北海道金属じん肺訴訟との出会い③~自分達を使い捨てた会社に対する怒りの意思表示をする

          札幌弁護士会所属、村松法律事務所所長 弁護士の村松弘康です。 前回の続きです。 確実に迫る死、避けられない死を前にして自ら命を絶つ患者。 あたかも死刑囚が、死刑執行の告知を待つ恐怖に似て、人生の希望も夢も未来も失い、病院や自宅で苦しみに耐えてじっと死を待ちつづける日々。 これほどの悲惨が他にあるでしょうか。 原告たちは、じん肺と診断されて初めて、会社が自分達を人間として扱っていなかったことに気がついたのです。 会社はじん肺の恐ろしさを教えず、入院の直前まで粉じんの現場で働

          北海道金属じん肺訴訟との出会い③~自分達を使い捨てた会社に対する怒りの意思表示をする

          身の置きどころのない苦しみが患者たちの全身を襲う〜北海道金属じん肺訴訟との出会い②~

          札幌弁護士会所属、村松法律事務所所長 弁護士の村松弘康です。 前回の続きになります。 じん肺の患者になると、どういった生活が訪れるか想像したことがあるでしょうか? 残酷なことに、じん肺患者は、もとの健康な身体を取り戻すことは二度とできません。進行性、不可逆性の疾病である結果、症状の進行・増悪を止める治療方法は無いのです。 死の恐怖に脅えながら、呼吸の苦しさに耐えて日々を過ごすほかないのです。 さらに、進行すると全身的な衰弱をおこし、抵抗力も弱まり、細菌に感染しやすく

          身の置きどころのない苦しみが患者たちの全身を襲う〜北海道金属じん肺訴訟との出会い②~

          会社を相手に裁判を起こすことに踏み切れなかった労働者たちの想い〜北海道金属じん肺訴訟との出会い①~

          札幌弁護士会所属 村松法律事務所所長 弁護士の村松弘康です。 今回は、金属じん肺患者との出会いになります。 北海道栗山町でクロム訴訟の陳述書作りに明け暮れていた1979年の秋のこと。 北海道余市町に住む高橋貞義さんと石渡猛さんが相談に来られました。この2人は住友金属鉱山余市鉱業所で働いて、すでに、じん肺に罹患していたのです。 金属鉱山の奥深くで発生していた「じん肺」という不治の病を、2人の話しを聞いて、この時、はじめて知ることになりました。 じん肺とは、鉱山や炭鉱の

          会社を相手に裁判を起こすことに踏み切れなかった労働者たちの想い〜北海道金属じん肺訴訟との出会い①~

          原告団事務局長 佐藤さんが示した「最後のぬくもり」 〜弁護士になりたてで携わった、北海道クロム訴訟(1977年)③ 〜

          佐藤さんの闘病生活とその最期の様子を「最後のぬくもり」として、映像にまとめたことがあります。 ▶︎ 村松弘康:「佐藤さん、これから8ミリを回すよ、佐藤さんの姿を裁判官に見せて被害のひどさをわかってもらいたいんだ。」 ▶︎ 原告団事務局長 佐藤さん:「こんな姿でもいいのかい?」 ▶︎ 村松弘康:「そのまま、そのまま。」 佐藤さんは8ミリカメラに向かって、「早く裁判が終ればいい。」と何度も繰り返していました。 それから間もなく、佐藤さんと会ったのは病院の解剖室でした。体

          原告団事務局長 佐藤さんが示した「最後のぬくもり」 〜弁護士になりたてで携わった、北海道クロム訴訟(1977年)③ 〜

          弁護士になりたてで携わった、北海道クロム訴訟(1977年)②〜クロム元素の人体への影響は、働いている人たちに知らされていなかった

          札幌弁護士会所属、村松法律事務所所長 弁護士の村松弘康です。 前回の続きです。 クロム元素は1797年(寛政9年)に発見され、このころから英国でクロム化合物の製造がはじまったのです。 1869年(明治2年)にはフランスで労働者の鼻中隔穿孔と皮膚障害が報告され、1890年(明治23年)には、スコットランドで鼻のがんが確認されるなど、その毒性は日本に工場が出来る以前からよく知られていました。 日本では、1893年(明治26年)からクロムの生産が開始され、1919年(大正8

          弁護士になりたてで携わった、北海道クロム訴訟(1977年)②〜クロム元素の人体への影響は、働いている人たちに知らされていなかった

          弁護士になりたてで携わった、北海道クロム訴訟(1977年)①~ 13年7ヶ月に及ぶ裁判が始まる

          札幌弁護士会所属、村松法律事務所所長 弁護士の村松弘康です。 弁護士としての第一歩は、いきなり現場に投げ込まれて始まりました。 実は、クロム訴訟原告団が結成された1977年(昭和52年)4月、札幌弁護士会に入会しました。何もわからないまま、というよりも弁護団の森越清彦弁護士に誘われるまま、車に乗せられて栗山町(北海道)通いとなったのです。 栗山町に日本電工株式会社の工場があった町で、原告の方が多く住んでいました。 午前中に栗山町に到着してから夕方まで、患者さん宅で工場

          弁護士になりたてで携わった、北海道クロム訴訟(1977年)①~ 13年7ヶ月に及ぶ裁判が始まる

          私たちの問題提起がきっかけで、スタッドレス義務化の立法化に至る〜冬道では欠かせないスタッドレスタイヤが日本で普及するきっかけ④

          札幌弁護士会所属、村松法律事務所所長 弁護士の村松弘康です。 前回の続きです。 日本でスパイクタイヤが販売されてから25年目、車粉公害が問題にされた1982年(昭和57年)から5年。異例のスピードで、スパイクタイヤ問題は解決しました。 調停成立後の同年7月16日、日比谷公園松本楼において、日弁連公害対策委員会・公害調停申立人弁護士と環境庁長官との懇談会が開催されました。 席上で、当時の環境庁長官 堀内保夫さんは、「人間の身体への懸念が発生したらすばやく対応すること。」

          私たちの問題提起がきっかけで、スタッドレス義務化の立法化に至る〜冬道では欠かせないスタッドレスタイヤが日本で普及するきっかけ④

          “当たり前”を覆していく市民の声から広がった社会運動 〜冬道では欠かせないスタッドレスタイヤが日本で普及するきっかけ③

          札幌弁護士会所属、村松法律事務所所長 弁護士の村松弘康です。 前回の続きです。 味方は1%しかいない。99%を敵に回しても勝ち目はない。戦わずして勝つ戦法とは…。 私たちは、戦わずして勝つ方法を真剣に模索し続けました。 そして、あることに気づいたのです。まずは、市民を味方につけることから始めていこうと。そして、行政、警察、タイヤメーカーを敵ではなく将来の味方として位置づけ、対話を呼びかけ粘り強く説得しつつ、支持を拡大していき、多数をとるというものでした。 当然ながら

          “当たり前”を覆していく市民の声から広がった社会運動 〜冬道では欠かせないスタッドレスタイヤが日本で普及するきっかけ③

          冬道では欠かせないスタッドレスタイヤが日本で普及するきっかけ②

          札幌弁護士会所属、村松法律事務所所長 弁護士の村松弘康です。 前回の続きです。 まず私たちが問題の解決のために最初に行動を起こしたのは、「スタッドレスタイヤの活用を促進する市民の会」の結成でした。 この会は、1982年(昭和57年)に、札幌弁護士会が主催した車粉問題を考えるシンポジウムがきっかけになって、その翌年1983年(昭和58年)に、北大工学部山科俊郎教授、関根和夫司法書士と私の3人が呼びかけて結成した会でした。 今ではスタッドレスタイヤが当たり前となっている社

          冬道では欠かせないスタッドレスタイヤが日本で普及するきっかけ②

          冬道では欠かせないスタッドレスタイヤが日本で普及するきっかけ①

          札幌弁護士会所属、村松法律事務所所長 弁護士の村松弘康です。 冬道で欠かせないスタッドレスタイヤ普及のきっかけとなる事件にも、運命的に携わってきました。 思い返せば、1982年(昭和58年)の春のことです。当時の札幌の街は、“黒い雪”で覆われていました。 裁判所の前に立って、東に目を向けても粉じんでテレビ塔が見えない日がよくあり、春の札幌の街は、アスファルト粉末(車粉と呼ばれていた)の黒い霧ですっぽりと覆われる日が続いていました。 この粉じんは、吸入しても大丈夫か、、

          冬道では欠かせないスタッドレスタイヤが日本で普及するきっかけ①

          私、村松の弁護士としての信念

          札幌弁護士会所属、村松法律事務所所長 弁護士の村松弘康です。 『依頼者の“最後の砦”とならなければならない』という想いから、村松法律事務所の所長として仕事をしている毎日です。 私の事務所は当然、交通事故、遺産相続、離婚問題といった一般事件も受任していますが、およそ勝ち目が薄い、他の事務所や弁護士では引き受けてもらえない事件も、相談者の気持ちを考慮しつつ、お引き受けすることも少なくありません。 そもそも、その人の言い分が通らなければ救われない事件。そして、「理不尽だ、不合

          私、村松の弁護士としての信念