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殺人するか心中するかそれが問題だ

春が近付いた。

箱崎はこの三日ほど悩んでいる。
妻を殺してしまおうか、と。
悩みはもう一つある。
自分も死んでしまおうか、と。
箱崎は細かいことに拘らない男であったので、三日も悩むと悩むことにも疲れてきて、どうせ悩むなら旅行でもしながら悩むことに決めた。
傷心旅行ならぬ懊悩旅行である。

行く先は東北に決めた。平泉を北上して盛岡、青森を寄り道しながら竜飛岬まで行くつもりだ。
閑散期のため宿は比較的簡単に取れた。

二年前に免許証を返納してしまったので、電車の切符も取った。特急にしようかと思ったが確たる目的があるわけでなし鈍行にした。

何をか察して嫌がる妻を説き伏せて、荷造りを終えて我が家を後にした。

上野から延々鈍行に揺られ平泉に着いたのは夕方だった。宿に荷物を置いて妻を連れて散歩に出た。
平泉の目的は中尊寺であった。奥州藤原氏の盛衰を身に沁みませながら此度の旅行に思いを馳せたかった。
金色堂は半ば夕方の闇に沈んでいた。
華美であるはずの金色も観光客のいない夕暮れ時には侘しさを増す。
箱崎がそういった感慨に耽っていると妻が言った。
「お金があるのは素晴らしいわねえ」
侘と寂の中に没入していた箱崎にとっては無粋極まる謂である。
やっぱり殺してしまおう。
茫漠とした思考回路で箱崎は考えた。

平泉の温泉宿に帰って箱崎は露天風呂に浸かったが妻は風呂に入ることを頑なに拒む。
折角の温泉宿なんだからと言い合いになったが箱崎が折れた。
浴衣を着た箱崎と着替えもしない妻と二人で温泉宿の夕食を食べた。先程の言い争いから妻の機嫌が悪く殆ど料理に手を付けなかった。

夜中に目を覚ます。
妻の寝顔を見て再び寝る。

次の日は盛岡まで来た。
石川啄木の縁の地ということで記念館を見学。高尚な気分になった所で街中のカフェーでコーヒーを飲んだ。妻が空腹を訴えるのでお店のオススメであるというチーズケーキを注文した。
美味しそうだったので箱崎も妻の皿から一口頂いた。

三日目。盛岡の街中で妻とはぐれる。
箱崎がぐるぐると歩き回って探してようやく見つける。妻は路上で行く先を見失って不貞腐れていた。
箱崎を見つけるなり怒鳴り散らして罵る。
そのせいで盛岡を発つことができず、市内で夕食をとる。冷麺。牛骨から出汁を取ったと言う。
すっきりと美味い。
透き通った麺に強いコシがある。
夕刻には青森に着く予定であったが、旅程に乱れが生じた。八戸で電車が止まる。

宿は青森で取っていたので、予約はキャンセル。急遽八戸で宿を探すことになった。
箱崎は八戸の駅でホテルを探したが、当日空室のあるホテルは見つからなかった。

妻と二人で行く宛を無くした。
途方に暮れたまま遅い晩飯を町の定食屋で食べる。
本来なら宿の魚介料理を食べている筈であるが、場末の定食屋で箱崎はカレーライスを食べた。妻はラーメンを注文した。
定食屋の主人の訛がひどく箱崎には殆ど聞き取れなかった。
食べ終えて店外に出ると夜であった。
駅に戻る。
しかし宿が見つからない。
次第に駅から人がいなくなった。
小一時間を経過して箱崎な駅で夜明かしすることを決めた。
箱崎の妻は既に隣で寝ていた。
ベンチに座ったまま箱崎に寄りかかる。
子供のようだ。
八戸はまだ寒い。

箱崎はコートを脱いで妻と我が身に打ちかけた。
老年の二人が駅のベンチで夜明かししようという構図は行き過ぎる人々から奇異の目で見られた。

その好奇の目を見つめ返す箱崎の目線は寂寞としていた。

箱崎は町工場の営業として働いて、数年前に無事に定年退職を迎えた。仕事で忙しくして家をかまけなかったことの自戒から、余生は家でゆっくり過ごそうと決めた。その箱崎を襲ったのは妻の認知症発症という現実だった。
軽度の認知症であったものが現在進行形で重篤に進んでいる。病院にかかっているが、症状は改善するどころか悪くなる一方である。認識を失って自らの置かれた状況が理解できない妻は常に周囲を猜疑の眼差しでねめつける。時にそれは攻撃性となって発露する。
全くの被害妄想から相手を罵りなじる。時に手が出る。箱崎もそうして妻から罵倒され暴力を受けた。女性の力なので痛くはないが、妻が鬼の形相となって我が身を罵ることは辛かった。
妻は不安症にかられその都度、箱崎を呼びつけるので深夜でも箱崎は眠ることを許されない。

ある日、突発的に激昂して箱崎を叩く妻をなだめながら、箱崎もついカッとして妻を押しのけた。一週間ほど前のことである。押しのけられて力なく妻は倒れた。そして呻いた。頭をぶつけて少し血が出た。

箱崎はハッした。

箱崎ははじめ昂奮の状態で、蓄積された鬱憤が晴れたような気持ちになった。だがうずくまって嗚咽する妻を見て、直後に激しい自己嫌悪に陥った。

翌日市役所に相談して認知症の老人が入所する施設を紹介してもらったが、箱崎の家計では負担できない費用だった。
その足で生活保護の担当課に向かったが、生活保護を受ける前にまず箱崎の家を処分することを勧められた。資産があるので保護受給がふさわしくないと事務的に言われた。

箱崎の中で何かが断絶した。

家を失ってまで今生にしがみつく必要はあるだろうか。
箱崎が生涯をかけて守ろうとしたものは家であり妻であった。妻との関係は既に失われた。この上、家まで失くそうとして、箱崎は生きる意味を見失ったのである。
その鬱屈を抱えて家に帰ると自分の大便を捏ねくっている妻がいた。
捏ねくった手で屋敷中を歩いたため、家のあちこちに糞便が付着していた。
糞便を掃除しながら箱崎は泣いた。

いま八戸で箱崎と妻は駅のベンチにいる。二人を覆うコートは二人を包み隠すには小さい。防寒というよりも、箱崎にとってコートは隔たりであった。箱崎と社会の隔たりであり、惨めな者とそれを笑う者との隔たりであった。

誰も助けてはくれない。箱崎は思う。助けてくれないならせめて安い倫理を振りかざすことなく死なせてくれ、妻には箱崎しかおらず、箱崎には妻しかいない。妻を助けてくれないのなら、妻の生殺与奪は好きにさせてくれと箱崎は思うのであった。
しんしんと更ける夜に箱崎は妻の肩を抱いたまま動かない。しんしんと増していく寒さに箱崎の目は寂寞の色を濃くしていく。

次の日の正午に箱崎と妻は竜飛岬に着いた。
最果てには灯台があり、そこは断崖であった。

箱崎たち以外に人影はない。

箱崎の懊悩の旅もここが終着点である。
此度の道中箱崎は悩み続けた。

妻を落とす。一緒に落ちる。
自分だけ飛び降りる。
東京に帰る。
一緒に帰る。
刺す。刺される。
自ら刺す。
ここで死ぬ。
家で死ぬ。


頭の中で箱崎は何度も死んで何度も妻を殺した。が、結局どうすれば良いのか分からない。

とうとう決め兼ねて箱崎は妻に聞いてみた。
「お前、一緒に死ぬか」

妻は言った。
「同じね。」

箱崎は言った。
「何が?」

妻が言った。
「昔、ここに一緒に来たわね。あなた、その時も同じこと言ったわ。」

遥か昔、箱崎はここで恋人だった妻にプロポーズしていた。
仙台、平泉、山形、盛岡を巡る奥州旅行の終着点であった。どのようにプロポーズしたものか迷って、旅に誘って旅の始終迷い続けてやはり最果てのこの場所でプロポーズした。
その時も確かに箱崎は同じ台詞を吐いた。箱崎自身自分がなんて言ったかなどすっかり忘れていた。その台詞を妻が覚えていた。今朝の朝飯すら覚えていられない妻が。

「いいわ。死んでも。」
妻は言った。
箱崎はそこにかつての妻を見た。

箱崎は妻の肩を抱き寄せた。
春が近付いた龍飛崎の風は未だ寒い。
そして海を見た。
遠景に北海道が見えた。
本日は快晴である。