アーシュラ・K・ル=グウィン「ゲド戦記 こわれた腕環」レビュー「自由の重み」

「ゲド戦記」って言うと宮崎吾郎氏の映画を連想されるかも知れませんが,
僕は今,グウィン女史の原作の「ゲド戦記」第2部の「こわれた腕環」の話がしたいのです。アニメ版「ゲド戦記」は永遠に未見の予定です。「永遠に未見」の理由は本レビューには全く関係無いので割愛します。

地下神殿の大巫女となるべく親元から引き離され名前も強奪され「アルハ」なる「ホーリーネーム」を授けられ大巫女になる為の学問に没頭する少女の話。

第1部「影との戦い」を経たゲドは大魔法使いとして登場し,「アルハ」と出会い「大巫女になる事」はお前の使命でも運命でも義務でもなく,お前は何をしてもいい,お前は自由自在なんだと彼女を啓蒙します。

「アルハ」はゲドの導きに従って強奪された「本当の名前」…「テナー」を取り戻して地下神殿の外に出ます。4歳の頃に拉致監禁されてから地下神殿が「世界の全て」だったテナーは何処までも続く空と何処までも続く大地を見てゲドに憎しみを覚えます。

「私は大巫女となる教育しか受けてない」
「私は「外の世界」なんかに出たくなかった!」
「オマエが私の前に現れなければ良かったんだ!!」
「これから何処に行き,何をしたらいいのか何も分からない!!!」
「オマエが憎いッ!私に「自由」を教えたオマエが憎いッ!!」

ゲームデザイナーの堀井雄二氏はこの「テナーの慟哭」に魂を鷲掴みにされ「ドラゴンクエスト5 天空の花嫁」を作ったと僕は思ってます。

父親と死別して強制労働が数年続き,強制労働施設から脱走した主人公は教会を訪れます。神父様にこれまでの経緯を話すと,次の様な助言をされます。

「貴方は今までお父さんに守られて生きて来ました」
「でもそのお父さんはもういません」
「貴方はこれから先,何処に行こうと何をしようと自由です」
「怖いでしょう。恐ろしいでしょう。」
「でもね。それが「大人になる」と言う事なのですよ」

作家の筒井康隆氏の「こぶ天才」という短篇小説があり「ハンプティダンプティ」という巨大な甲虫を背負うと脊髄で癒着して二度と引き離せず,二目と見られない醜い姿となる代わりに高い知能を得る設定が登場します。「ハンプティダンプティ」のバイヤーの元に母子が訪れ,母親は子に「ハンプティダンプティ」を背負わそうとするのですが子供は「セムシになりたくない」と頑強に抵抗し弾みで「ハンプティダンプティ」が母親の背中に飛び付きます。バイヤーは悪意を込めて「お母さんも頭が良くなったらどうですか?」と尋ねると母親は「女は馬鹿でいいの!女は馬鹿でいいのッ!!」と絶叫する場面があります。
勿論筒井氏が「女は馬鹿である」とか「女は馬鹿でいい」と主張してる訳では毛頭なく「自分が馬鹿である事」とタテに無責任な態度・無責任な発言をする人間を批判されておられるのです。

「俺っちは馬鹿だから良く分からねえけどよォ」とか「素人質問で恐縮ですが」とか前置きすればどれ程失礼かつ滅茶苦茶な発言をしても許され,滅茶苦茶な発言をホンの少しでも批判されれば「馬鹿の発言に何ムキになってるんだよ」とか「私は素人なんです!専門知識で殴るのを即刻止めて下さい!」と「自分が馬鹿である事・素人である事」を逃げ口上に使う昨今の風潮を思えば筒井氏の指摘は正鵠を射ていると思うのです。

テナーやドラクエ5の主人公に突き付けられてるのは「自由の重み」であって「女は馬鹿でいいの」とか「私の様な素人を専門知識で殴るのを即刻止めて下さい!」とか「馬鹿である事・素人である事」をタテに一切の責任を果たそうとしない人達は「自由の重み」に耐え切れず「馬鹿である事・素人である事」に逃げた臆病者であると・「子供」であると言いたいのです。

グウィン女史も堀井氏も筒井氏も言い方は違いますが「自由の重み」に耐えられる人間だけが「大人」になる資格があると言っているのです。

未来永劫馬鹿のままでいい・素人のままでいい訳ないでしょう?
一体何の為に子供の頃から勉強してるのか。
「そうでなくなる」為でしょう?
そうでなくなって「自由の重み」を担う為でしょう?
「自由の重み」を担って「大人になる」為でしょう?

「俺っちは馬鹿だから良く分からねえけどよォ」
なんていい大人の使う言葉じゃないと言ってるんです。
「良く分からねえ」から勉強するって「当たり前」から逃げ続けた結果,
何時しか「本当の馬鹿」になっていた,という御伽噺の御粗末である。

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