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ポール・ヴァーホーベン監督の映画「ベネデッタ」レビュー「信仰の根源」

1600年代のイタリア。
修道女ベネデッタ(ヴィルジニー・エフィラ)はキリストの花嫁に選ばれた
幻視(ヴィジョン)を観たと告白するが,告白を聴いた坊主は
「幻視とは救いであり救いには耐え難い痛みが伴うもの。
痛みを伴わない外科手術があるとでも?」
と全く取り合わない。
すると次に彼女は両手両足脇腹…キリストが負った傷と同じ箇所…。
…を負傷し同じ主張をする。
修道院長(シャーロット・ランブリング)は
「アナタ,茨の冠の傷が無いわねえ?」
と彼女の心中を見透かした様なツッコミをして取り合わない。
すると次の次には彼女は額に傷を負った状態で発見されるではないか。
この…坊主や自分の「添削」を受けて二転三転する
彼女の泥縄告白に信を置く事は到底出来ないと感じる修道院長であったが
修道女達や町の人間達は
ベネデッタを聖女と崇め始め野菜や果物を供え始める。
「神の栄光」が本修道院に示された事を彼女を人寄せバンダにして
広宣流布に利用出来るのではないかと思う者も現れ始めるのであった…。

ベネデッタの幻視は真実なのか嘘なのかは実は本作の論点ではなく,
彼女が「ベネデッタ」と言う劇の主役であって
「常に真実を演じてる」って事が本作の本質であって
「演劇ってさあ~どうせ監督・脚本家・演出家・役者が束になって
吐いてる噓八百なんだろ?」
って酔客が飛ばす「創作」と言うものを全く理解出来ない
下卑た野次に対するヴァ―ホーベンの「答え」なのだ。

本作は映画と言うよりも演劇の文法で構成されていて
登場人物全員がワザとらしく芝居がかった演技をしていて
「真実」が何処にもない。
しかしながら全員が全員がおどけて演じる演目のお題が
大変ふざけた事に「真実」なのである。
全員が全員ガラスの仮面を被っていて,最後まで仮面を脱がないのだ。
僕は北島マヤに関心があるのではなく
彼女が演じる役柄に関心があるから,これでいいのである。

修道女ベネデッタは勿論娼婦も町人も騎士も修道院長も教皇大使もイエスも
全員が全員俗物であって飯も喰えば糞もすれば交わりもする
愛すべき生体として描かれ,その気ままに生きる生体が
極稀に世界を変えて行く模様を追って行く。

ベネデッタにその座を奪われた前修道院長はフィレンツェの教皇大使に
泣きついて彼女の審問を行う事となるが彼女は怯まない。
町にやって来た教皇大使の足をタライでいやらしく洗い
「それは娼婦のやり口だな」
との侮蔑の言葉を誘い
「あっるるるるるぇぇぇ?猊下は「娼婦のやり口」に
お詳しいんですねえェェェェ?」
と艶やかに笑い更に教皇大使を挑発するのだ。

前修道院長と教皇大使がフィレンツェから黒死病を持ち込んだ事も
最大限に利用する。
「貴方を弾劾して黒死病に罹患した私を笑っているのでしょう…?」
「私は貴方と違って神の声を一度も聴いたことがない…コンチクショー…」
と死の床に就き意気消沈する前修道院長を前に彼女は
「いいえ院長先生,神は今病魔の姿となって
貴方にしきりに話しかけておられます」
と励ますのだ。
「何てこと…この病苦が神の声・神の愛と言うのなら
神の愛され方はマジでマジでマジで激しすぎるゥゥゥゥゥ」
と前修道院長が初めての絶頂に達する場面が
ベネデッタとの「和解」として描かれるのだ。
余りにもこの場面が素晴らし過ぎて泣いちゃったよ。

ベネデッタにキリストの霊が憑依する場面が,まんま「エクソシスト」で
リーガンに悪魔が憑依して喋る場面と一致してるのは,
きっとヴァ―ホーベンがヴィルジニーに
「雌犬(ビッチ)として演じてくれ」
って演技指導してるからで,
彼女が雌犬(ビッチ)なら彼女に憑依したキリストが
雌犬の息子(son of the bicth)に見えるって悪意に満ち満ちた寸法ですね。

神も悪魔もその辺を彷徨ってる野犬や狐同様の低級霊と見做してる訳で,
ローマ教会から永遠に破門されようが死後裁きが待っていようが
未来永劫地獄の業火で焼かれようが,
「そんなもん」を恐れてたら映画監督は務まらないとの
ヴァ―ホーベンの覚悟が伝わって来る。

でもさ。

ここまで散々この映画の「怖さ」で脅かして来たけど
本当はね,なーんの心配も要らんのです。
ベネデッタが幻視する「イエスさま」って羊飼いの格好して
慣れない剣を振り回しながら彼女を誘惑する蛇を追い払ってくれる
「気のいい兄ちゃん」なのよ。
「俺んトコに嫁に来いよ」と言ってくれて
困った時には悪党の顔に鳥のフンを落として追い払ってくれる気安い存在。
どんなに困った時でも「わたしのヒーロー」が助けに来てくれるから平気と
彼女は子供の頃から素朴に「信じてる」のだ。
それが彼女の信仰の根源。
つまり彼女の「素」なのだ。
なので決して彼女の信仰は揺らぐ事がないのです。

そもそも彼女の素朴な信仰は「イエスさま」が悔い改めれば
女であっても娼婦であっても弟子にしてくれる
身近な存在だって所から発してるんだよね。
「マリアさま」って大大大大大前例があるから彼女も「信じられる」のだ。
それを「改悛の条件」とか「改悛の定義」とか
教会が煩く言うから面倒臭いだけで
本作でも「神は形式に囚われない」って明言してる。

ベネデッタを「強欲な田舎者」と描かず
「根っ子に素朴がある」って描いてるから
「彼女に罰が当たるかも」って悲壮感がゼロなので
安心して観ていられるのです。

ヴァ―ホーベン監督が想定する「神」って
存外呑気な存在なのかも知れませんね。
監督が許せないのは神の威光を笠に着て
十字軍遠征でユダヤ人を殺す事を許した教会の方なのです。

本作の終わりにベネデッタは町に戻る決意をこれ迄ずっと行動を
共にしてきたバルトロメア(ダフネ・パタキア)に伝える。
「中身」が現代人のバルトロメアには彼女の行動が理解出来ない。

「私は行かないよ!」
「あの町に戻ったら魔女として焼かれるだけじゃん!」
「黒死病でもがき苦しんで死ぬだけじゃん!」
「なんで!?」

莞爾として笑い耐え難い痛みの待つ町に戻って行くベネデッタには
「イエスさま」の嫁になって
一緒に野山で羊の放牧をする牧歌的な幻視が視えているに違いないのだ。

特典映像で学生がヴァ―ホーベンに通り一遍の質問をして
「どうも有難うございました」
って言って,そそくさと帰ろうとしたら
「待ちなよ学生さん」
って監督が遮って
「俺は俺の全てを映画の中に置いて来た」
「映画が俺であって俺が映画なんだ」
「だのに何故オマエは俺に映画の事を聴きに来る?」
「俺の事が知りたかったら,映画の事が知りたかったら,俺の映画を観ろよ!」
「俺の所にカンニングに来る奴があるか!」
「なあ?オマエだよオマエ!俺はオマエに言ってるんだよ!」
と詰め寄る場面が最高なのである。

あとね!「ショーガール」の事聴かれて
「べっ別にアタシはフェミニストなんかじゃないんだからねっ!」
と答えたり
ベネデッタと行動を共にするバルトロメアが現代的であるとの指摘に
「べっ別にアタシはSNSのMeToo運動なんかに
影響されたワケじゃないんだからねっ!」
と気色ばむ場面で監督が語るに落ちるタイプの
ツンデレの萌えキャラだと知った次第である。

久しぶりに「最近の映画」を観て大満足したよ。
のどかで牧歌的で実に実に気風のいい作品だった。
充実した映画体験をどうも有難う。


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