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短編小説『春の雨はなぜ降り続けるのか』

「雨だね」

 風見鶏(かざみどり)は、静かに話す。

 あたしはぼんやりとカフェの窓から見える街の景色を眺める。あたしと風見鶏は、阿佐ヶ谷の駅の近くにある、小さなカフェでお茶を飲んでいる。

 確かに、外はあまり穏やかとは言えない春の雨で満たされている。

 オープンテラスに備えつけられたテーブルは雨に濡れて、水槽の中のオブジェみたいに、その本来の役目を失っている。

「桜を散らす雨だ」

 風見鶏は、ぼやくように話す。


 あたしは黙っている。

 少なくとも、今日のあたしはこうやって、風見鶏の話を聞こうと決めている。語り部は彼で、あたしは聴衆なのだ。彼はそうした役目を十分理解しているみたいに、あたしの相槌を待たずに話をつづける。

「毎年この時期になると、いつもこういう雨が降る。桜が満開になって、みんなが浮かれてお花見の準備に忙しい週末にね。いつも、楽しいことに示し合わせたように、こういう雨が降る」

 風見鶏は話すのをやめて、ゆっくりと林檎ジュースを飲む。

 あたしはコーヒーカップを両手でいじっている。

 風見鶏は窓の外の景色を眺めている。


 あたしは黙って、彼の話の続きを待つ。

 彼の手元には、フランツ・カフカの「城」が置かれている。

 風見鶏はとても熱心に小説を読む。彼は自分でも短い小説をいくつか書いていて、あたしは彼の書く小説の文章をひそかに気に入っている。

 彼の書く文章には、何か生々しい、命の根っこみたいなものが含まれているような気がする。

 あたしには文才なんてないからうまく表現できないけど、とにかくあたしは風見鶏の書く文章が好きだ。

(もっとも、彼には、あまりそういうほめ言葉を言わないようにしている。だって風見鶏が自分の書く文章にへんな自信をもって、努力しなくなったりしたら困るからだ)


 でも、フランツ・カフカの良さは、あたしにはいまいちわからない。

 カフカの小説は、風見鶏が余りにも熱心にすすめるものだから仕方なく何冊か読んだけど、どれもこれもほこりをかぶった紙芝居みたいに古臭くて、暗い。

 台詞も長いし、何を伝えたいのかよくわからない。ずっと灰色のモノクロ映画を観せられているみたいで、気が滅入ってしまう。

 ふつうに生きていたって、明るいことの少ない今の世の中で、何でわざわざ薄暗くて冗長な小説を読まなくてはならないのだろう?

 あたしには、わからない。


 あたしは明るいものが好きだ。

 冷たい暗闇よりも、あたたかい日向が好きだ。

 でも、だからってそういう明るい小説を書く作家のことを、あたしは風見鶏に押しつけたりはしない。

 彼には、彼の好きなものがあって、彼なりの生き方がある。別にかまわない。あたしはそれを否定しない。

 でも、わからない。

 風見鶏は、わからないことだらけだ。

「この雨がやむ頃には、もう桜はほとんど散ってしまうだろうな。きみは、桜は好き?」

 彼は、不意に、あたしに問いかける。


 彼はルールをやぶる。

 それであたしは少し不機嫌になる。

 今日は彼が語り部で、あたしはただの聴衆なのに。

 しばらく黙っていると、風見鶏は哀しそうな顔をした。彼はいつもあたしの心の中を気にしている。あたしにはそれがわかる。

 仕方がないから、あたしは彼の質問に答える。今度はあたしが語り部で、彼が聴衆になる。そういうルールなのだ。

「桜は別に好きじゃない」

「そう?」

「だって、桜って何だかさみしいじゃない。ぱっと咲いて、すぐに失くなって。あたしはもっと息の長いものが好き」

「どれくらい息の長いものが好きなの?」

 風見鶏は質問する。

 あたしは少し考える。

 そして答える。

「百年くらい。すぐに消えて失くなるようなものなんて、つまらないし、何の意味もないものだと思う」


 小さな沈黙があって、その空白を春の雨の音が包んだ。

 今日は四月なのにとても寒い。暖房が効いているはずのカフェの中にまで、その冷たい気配は入り込んでくる。

 黙っているあたしを見て、風見鶏はまた、哀しそうな顔をした。

 彼にはあたしの心の動きがわかるのだ。

 あたしはそれでまた居心地のわるい気持ちになる。

 彼のそうした繊細さは、あたしの気持ちをいつも揺さぶる。


 風見鶏は、しっかりと間をとってから、あたしに話しかける。

「機嫌が悪いんだね」

「たぶん」

 あたしは短く答えて、コーヒーを飲み干すと、コートに手をかける。

 風見鶏はあたしに声をかける。

「今日はこれからどうするの?」

 あたしはまた、短く答える。

「美術館に行くの」

「誰かと約束しているのかな」

「ひとりで行く」

「なぜ美術館にひとりで行くの?」

「何も考えなくていいから」

 風見鶏は、わかった、という風に両手を小さく上げた。


 あたしはコートを羽織って、傘を片手にぶら下げる。

 コートは水色で、傘はレモン色だ。

 どうしてこんな幼稚園児みたいな色味のコーディネートを選んでしまったんだろう。今日は美術館に行くから、もっと落ち着いた色合いの格好で出かけようと思っていたのに。

 たぶん、風見鶏と久しぶりに会うことになったからだ。

 風見鶏はいつもどこか哀しげだから、あたしは彼と会うときは何となく明るい色の服装を選んでしまうのだ。


 あたしはカフェを出て、駅に向かう。

 阿佐ヶ谷の街には、冷たい雨が降りそそいでいる。あたしはレモン色の傘をさして、水槽みたいに濡れた街の中を歩く。

 歩きながら、あたしは考える。

 主に風見鶏のことを。

 彼とあたしは、何かがつながっている。

 あたしにも、彼にも、それはよくわかっている。

 でも、だからといってお互いに無理して近づこうとはしない。

 ものごとにはいろんなルールがあって、あたしたちはそれに忠実に生きている。

 別にそれでいいとあたしは思っているし、きっと風見鶏も同じように考えているのだろう。


 でも、たまにどうしようもなく、彼の声が聞きたくなるときがある。

 彼はそれをいつも受け入れてくれるし、たぶんあたしはそんな彼の存在に甘えている。

 あたしはふと、後ろを振り返る。

 そこには誰もいなくて、ただ雨に濡れた阿佐ヶ谷の街の景色が広がっているだけだ。

 さみしい風景、とあたしは思う。

 まるで今のあたしの心の中みたいだな。


 あたしは立ち止まる。

 それから深呼吸をする。

 しめった冷たい空気が、身体の中に入り込んでくる。

 あたしはその空気を一気に吸い込んで、それからゆっくりと吐き出した。


 あやまらなくちゃ。風見鶏に。

 あたしには、彼の存在が必要なんだ。


 たとえ、あたしと彼のつながりに、

 明確な名前がついていないとしても。


 あたしは気持ちを落ち着けて、自分が言うべき言葉をしっかりあたまの中にイメージしてから、iPhoneを取り出して電話をかける。

 自分で勝手に怒ったり、あやまったり。

 あたしはいったい何をしているんだろう。

 こんな自分がたまにとてもいやになるけれど、でも、やっぱりあたしは電話をせずにはいられない。

 電話のベルは、三回鳴ってからつながった。

 風見鶏は黙っている。

 あたしは、静かに話しかける。

「もしもし。まだカフェにいるの?」

 彼は答える。

『いるよ』

「今、何してるの?」

 少しの沈黙があって、彼は話す。

『林檎ジュースを飲み終えて、雨を眺めていたところ。持ってきた小説は、結局まだ読んでない』



 あたしは少し息が詰まる。

 そして、小さく言う。

「ねえ、さっきはごめん」

 風見鶏は笑う。

『今日は何の絵を観にいくの?』

 あたしは、短く答える。

「フェルメール」

 彼も、短く答える。

『オーケー』


 彼はいつもやさしい。

 悔しいくらいに。



 ——冷たい春の雨は、新しい季節の匂いを洗い流しながら、静かに降りそそいでいる。

 いくつもの傘が、水槽の中を泳ぐ魚の尾ひれのように揺れて、雨水を受けながら、それぞれの目的地にむけて進んでいく。


 ひとつのレモン色の傘が、ゆっくりと阿佐ヶ谷の駅に向かって歩いていく。

 そして、もうひとつのブルーの傘が、レモン色の傘を追いかけていく。

 レモン色とブルーの傘は、確かな意志を持って、互いの歩みを寄せる。

 やがてふたつの傘は重なって、ならんで揺れながら、阿佐ヶ谷の駅の構内に吸い込まれていった。


 冷たい雨は、まだ止まない。

 春の雨は、春のかたちを確かなものにするために、

 降り続いているのだ。


[完]


あとがき

 当作品は、狭井悠の新規マガジン「TOKYO PORTRAIT」のために編集した短編小説の第一弾です。

 昨日の朝、目覚めた後に洗面所で顔を洗っていたら、頭の中にふと、「TOKYO PORTRAIT」というマガジンのタイトルが浮かびました。その響きが、なんだかとてもしっくりきて、すごく好きだなと思えたので、これを機に、過去作品も含めた全く新しい短編小説集を作りたいと思いつきました。

「TOKYO PORTRAIT」のコンセプトは、「視覚的な文章表現」です。ウェブ上の文章というのは、縦書きの紙媒体の小説と比べると長文が読みづらく、ひとつの記事や作品を読むのに割かれる読者の時間も圧倒的に短いです。

 そのため、じっくりと文面を読んでもらうというよりも、画面をスクロールしながら感覚的に読めるような、より軽やかな小説体験をしてもらえる書き方をしてみたいと以前から考えていました。

 そこで、「TOKYO PORTRAIT」では、Pixabayの無料素材写真を主に利用して、文章に合わせた写真を選び、「読む」という行為と同時に「見る」という行為も併せて体験してもらい、より視覚的に小説のストーリーを味わってもらえるように工夫をしています。

 今回の作品では、実に17枚の素材写真を使用して、作中に流れるストーリーを可視化させました。この「TOKYO PORTRAIT」は、これまであるようでなかったウェブ的な小説表現だと個人的に感じています。

 映画のような映像作品、写真集のような画像作品、小説や詩といった文章作品の良いところ取りをしたような、新しい作風を「TOKYO PORTRAIT」では今後も模索していきます。

 面白いと思っていただけた方は、ぜひともSNS上でシェアなどをしていただければとっても嬉しいです(でも、いちばん嬉しいのは読んでいただいた方の心の中に、作品が残り続けることです。たとえ、たったひとりの読者であっても、心の中に根付くことができれば、この作品は完成されたものになると確信しています)。

 また、将来的には「TOKYO PORTRAIT」で、写真、動画、絵画など、視覚的な芸術やクリエイティブを行っている人とコラボレーションした作品なども発表していけたらめちゃくちゃ楽しいだろうなと考えています。

 狭井悠の「TOKYO PORTRAIT」に興味を持ってくださり、「作品コラボレーションしても良いよ!」と言ってくださる稀有なクリエイターの方がいれば「ja039036@gmail.com」、またはTwitterのDMなどでご連絡いただければ幸いです。

 なお、現在、僕はフリーランスライターとして活動していますが、メインはSEO・コンテンツマーケティングなどの商業ライティングで生活をしています。そちら方面では業績も上がっており、生活そのものは充足されているのですが、今後はぜひとも、一人前の物書きとして飛躍していくために、「狭井悠」の筆名で仕事がしてみたいと考えています。

 狭井悠の文章を読んで、「なんか書いてみる?」と声かけをくださる稀有な媒体様があれば「ja039036@gmail.com」、またはTwitterのDMまでご連絡いただければ、速攻で書きます。ぜひともお声がけください。

 ちなみに、この作品は2012年に僕が執筆した短編小説「春の雨はなぜ降り続けるのか」のリライトバージョンとなっています。2012年は、僕が物書きを志して本格的に活動を始めた年であり、一年の間に20本以上の短編小説と、中編小説・長編小説をそれぞれ1本ずつ書きました。

 それから6年が経った今、当時書いた作品をブラッシュアップして、もっと多くの人に読まれる場所に発表し直したいと思い、こうしてnoteにアップすることを決めました。この短編小説は、個人的にとても気に入っている作品のひとつです。

 フリーランスライターとなった今、自分の過去作品に編集者的な目線で向き合うのは、とても新鮮な体験でした。結果、6年前の自分と今の自分が協力し合い、なかなかわるくない「視覚体験型」の新しい短編小説に仕上がったのではないかという手応えを感じています。

 今後とも、狭井悠の作品、および、「TOKYO PORTRAIT」をぜひとも楽しんでいただければと思います。引き続きよろしくお願いいたします。

 狭井悠

サポートいただけたら、小躍りして喜びます。元気に頑張って書いていきますので、今後ともよろしくお願いいたします。いつでも待っています。