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広沢池と刀剣、和歌とともに後鳥羽院に思いを馳せてみる

「広沢の 池に宿れる月影や 昔をうつす鏡なるらん」

前回京都の広沢池についての投稿をしました。その続編というか、スピンオフというか。

広沢池、観音島からの景色

広沢池の基本情報に関しては前回の投稿をご覧いただければ幸いです↓

冒頭の歌はそんな広沢池を題材とした後鳥羽院(1180-1239)作のものです。現代人でも難しく感じない、わかりやすい歌ですね。

ロマンティックな感性と旺盛な野心の両方を持ち合わせていたらしいこの人の性格がこの歌からうかがえるような気がするのですがいかがでしょうか? 過去に対してロマンティックな感傷と自らが思い描く世の理想像をいだきつつ、一方では「現在の武者の世、鎌倉政権なんぞク◯く◯え」というドロドロした情念も抱え込んでいた、みたいな。

結果的にはそんな彼の性情が自身を破滅へと導くことになるわけですが…

そんな後鳥羽院と言えば大の刀剣好きとしても知られており、彼自らが菊の御紋を彫った「菊御作(きくのおんさく)」と呼ばれる刀剣が現在まで8振ほど残されています。

京都国立博物館にあるものが有名ですが、↓は東京国立博物館所蔵のもの。

撮影が下手で申し訳ないのですが…
説明板
これは拵
説明板

上杉景勝が愛用した刀でもあり、上杉家に伝来してきたものです。説明の画像にあるように拵も景勝が作らせたものとされています。悲劇の天皇と天下の帰趨をちょっと見誤っちゃった武将の組み合わせ。なかなかに歴史のロマンを感じさせてくれるひと振りではないでしょうか。

おそらく後鳥羽院の刀剣好きは単なる趣味の範囲の話ではなく、「われこそが帝王なり」という意識のもとで武士政権と対抗するために日本刀を一種のレガリアとみなしていたのでは?という気もします。何しろ源平合戦のどさくさで正真正銘のレガリア、草薙の剣が失われてしまっていたわけですし。

後鳥羽院作の歌をもう一首↓

「我が頼む 御法の花の光あらば 暗きに入りぬ 道しるべせよ」

1235年(嘉禎元年)、時の摂政、九条道家が鎌倉幕府に対して後鳥羽院と順徳院の配流先からの還京を提案しました。それと同時期に後鳥羽院が詠んだとされているのが↑の歌。自らの還京を巡る情勢を知った上で読んだ歌では?とも言われています。

ちなみに当時の鎌倉将軍、九条頼経はこの九条道家の息子です。

自分を罪人扱いしたうえに島流しの憂き目に遭わせた鎌倉幕府への恨みや批判を並べ立てることもなく、当時の後鳥羽院の深い祈りの境地を伝えるような内容になっていますが…

隠岐に流されてからすでに14年、精神状態が闇落ちしかねない危うい状況でなんとか正気を保っている…みたいな怖い雰囲気をこの歌から感じるのはわたしだけでしょうか?

ちょっとうがった見方をすればこの歌は実際に「暗きに入って」「闇落ち」してしまった崇徳院のことを意識して詠まれたのではないか?つまり、後鳥羽院はこの歌に「俺(実際には朕でしょうか)を崇徳院のような世に混乱をもたらす”大魔縁”にしたくなかったら京の都へ戻せ」というメッセージをこめていたのではないか?

「保元物語」では崇徳院は配流先で来世での救済を求めて自らの血をもって五部大乗経を写経、石清水八幡宮への奉納を希望したものの後白河上皇ならびに藤原信西がそれを拒絶、これをきっかけに「日本国の大悪魔」になることを誓ったとあります。(そして平治の乱における信西の末路はみなさん御存知の通り/恐)

これが史実としてどれだけ受け入れられるかという問題もありますが、この崇徳院の願望&挫折と当時の後鳥羽院の和歌&彼が置かれていた状況には通じるところがあるようにも思えます。つまり…

「かように仏に深く帰依している朕をないがしろにするな、さもなくば崇徳院のように世に祟りをなす大魔縁になってしまうかもしれんぞ」

という脅迫まがいの意図をこの歌に込めたのではないか?

な~んて妄想も抱きたくなります。

結局この提案も鎌倉幕府には受け入れられずにその4年後の1239年に隠岐の地で亡くなることになるわけですが。さて、そうなると気になるのが死した後鳥羽院の魂の行方ですが…

その年の12月に三浦義村、さらに年が明けた1340年の1月に北条時房と鎌倉幕府の重鎮二人が死去、さらに夏には全国的に干ばつが発生し幕府・朝廷がともに祈雨の儀式を挙行。加えて幕府は鎌倉と京都の警備の強化を行う一方で朝廷は京都に出没する盗賊たちの取締を幕府に命じるなどなにかと不穏な情勢に。

ほかにも先述した九条道家の養兄弟だった九条良平、鎌倉幕府の評定衆として活躍した二階堂基行も同年に死去。

承久の乱で活躍した人物が亡くなり、天変地異が起こり、不穏な世情になり…当時の人たちは「これはおそらく後鳥羽院の祟りではあるまいか」と恐れました。さらに1242年には順徳院も死去(生前から「死んだら怨霊になるぜ」と宣言していたとか/恐恐)。

どうやら九条道家による後鳥羽院の還京の提案の時点で朝廷の周辺では「後鳥羽院の怨念によって世が不安定になっている」といった認識があった模様です。それが後鳥羽院の死後に鎌倉に飛び火した、といったところでしょうか。

こうした事情のなかで1247年に後鳥羽院、順徳院を祀るため(怨霊を鎮めるため)に建てられたのが鶴岡八幡宮の境外末社、今宮(新宮)です。現在は土御門天皇も祭神に名を連ねています(明治になって加えられたそうです)


1247年と言えば「北条&安達vs三浦」の宝治合戦が勃発して鎌倉政権内における北条氏の圧倒的優位が確立された年。北条政権によって身の破滅を強いられた怨霊たちを鎮める社を建てた年にその北条政権に大きなご利益がもたらされる…

これは「祟りをもたらす恐れがある怨霊を適切に祀ればかえってご利益が得られる」という御霊信仰の格好のモデルケースなのでしょうか?つまり、後鳥羽院と順徳院は自分を滅ぼした北条氏に、神として祀ったご褒美としてご利益をもたらしたということなのか?

御霊信仰恐るべし!

…この説明に納得できる人はたぶん一人もいないと思いますが(笑)

そんな祟りにもご利益にも絶大な力を発揮する(らしい)怨霊でも自然災害にはかなわないようで…2019年の台風では鎌倉の寺社に多くの被害が出ましたが、この今宮も壊滅的な状況になってしまいました。(当時の様子を見てきましたがかなり心痛む光景でした)。

このように無事新社殿が建て直されたのはとてもめでたいのですが、以前の昼間でも薄暗くていかにも怨霊が宿っていそうな怖い雰囲気はかなり後退してしまった印象なのがちょっと残念。

これはよく言われることですが、「若宮」とか「今宮」と名付けられた神社は怨霊や怨霊がもたらした災難を鎮めるために建てられたケースが多いと言われます。そして鶴岡八幡宮には若宮と今宮の両方がある!

さすがに武士たちが血を血で洗う闘争を繰り広げた地だけあって怖いですねぇ。怨霊絡みの史跡スポットが多い京都と比較すると鎌倉はそれほどドロドロした雰囲気はあまり感じないのですが…その京都は観光地化が進んでいく過程でドロドロした「闇の部分」が失われているように思います。なので新社殿になってもこの今宮にはそんな雰囲気を残し続けて欲しい、なんて気がしてしまうのはちょっと不謹慎でしょうか?

そして後鳥羽院と言えば詠んだ歌が百人一首にも選ばれています。

「人もをし 人も恨めし あじきなく 世を思ふ故に もの思ふ身は」

意味は「世の中はつまらんものだなと物思いにふけっていると人を愛しくも恨めしくも思えるよ」みたいな感じでしょうか。

この「人」を個人とみて「一人の人間には愛おしい部分と恨めしい部分の両方がある」と見るか、人という生き物全体として見て「人間という生き物には愛おしい面と恨めしい面の両方がある」と見るか、さらには2つの「人」を別人と見て「世の中には愛おしい人と恨めしい人がいる」と見るかで意見が分かれるようですが…現代人の感覚では人類全体として見るのが一番しっくり来ますでしょうか。人の営みには醜さと美しさの両方があるように思えるよ、みたいな。

これは1212年、数えで33歳の時に詠んだ歌なので承久の乱とは直接関係ありませんが…この人のその後を踏まえた上で鑑賞すると面白くなってきますね。達観しているような、不穏な気配が漂うような…

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