大学は託児所

今日の授業中に、こんな言葉が出ました。

小学校や中学校は、働く人のための託児所であるが、最近は大学もその機能を担いつつある

私はこれに心から同情したいです。大学で出席逃げをする人が多いという現状が、生徒である私だから痛いほどわかる。

そもそも大学に来る意味とはなんなのでしょうか。就職のため?名誉のため?多くの人は体裁を気にして、取り合えず入れそうだから入っておこう、みたいになるんだと思います。今からやりたいことが決まっているなら、こんなに何もないところにはそもそも来ないんじゃないかとも。

ゼミで使っている本には、「損得勘定を抜きにして学問を行わないといけない」という内容が書いてあったのですが、これができるなら、きっと全世界の人が学者になっているはずです。言うは易し、行うは難し。

損得を抜きにして何かを考えることは非常に難しいです。自分が潜在的に何を求めてるのかとか、全部わかる人がいれば多分その人は心理学者とかそんな職種につけると思います。

出席逃げする人の心理はなんとなくわかります。受けていても、仕方がない、得がない。そう感じたから逃げるのだと。そのことに関して、教授は子供だというニュアンスを含めてそのような発言に至ったのだとも、容易に推測できます。

じゃあ、どうしたら、生徒に「自分が得をしている」と錯覚させる授業を行うことができるか、といったら、あとは教授の力にかかっているとも言えてしまうのです。専門分野には向き不向きがあって然りなのですから、そこについていく生徒に限界が来てしまうのも仕方がない。

つまり何が言いたいかというと、授業に態度を求めるなら、自分もリスペクトを持った授業をしなければならないんじゃないかなということです。今回その発言をした教授は、よくいえば親しみやすい、悪くいえばなめられている人です。最初の発言自体に同情はしています。しかし、人間らしい科目であるはずなのに、時たま見える動物的本能が、私には気持ち悪く見えてしまいます。(この発言のとらえ方はご自由に)

最後に、ゼミの教授に言われた言葉と、それに関する私なりの考察で、このnoteを締めたいと思います。

授業の最後に行われるアンケートで、大概教授に対する悪い評価を書くのは悪い成績をとった人たちである。そこばかり気にしているなら、授業のレベルはどんどん落ちていく。だからといって高い成績をとる人たちの意見を贔屓していては、民主主義的観点からいって不適切である。大学だからそこは厳守すべきだ。

そもそも悪い成績を付けられるのにもさまざまな理由があって、私が受けている授業でいい成績を取るには、おそらく教授と常日頃からしゃべることが第一条件であるんじゃないかと思っています。教授だって人間です。教授としゃべることが直接的には成績にかかわっていなくとも、おそらく潜在的に情がかかるんじゃないかと思うのです。

今の授業においては、教授が人であることが裏目に出ているような気がしてならないのです。だからといって、すべてをシステム化すれば、いつかは穴に気づかれる。そしたら誰も大学を必要としなくなるんじゃないかと私は思います。

今大学にいる私たちには倫理観が求められ、教授には色眼鏡を外すことが求められている。大学が腐っていくのを止めるためには、一人一人がこんなことを考えていたらいいんじゃないかな、と、私は思うのです。

レッツ!クマ囲みライフ!