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「中原中也 朗読会」に参加しました

1.はじめに

昨夜は、ikoma(胎動LABEL)さんと平川綾真智さんが主催する、誰でも参加できるオープンマイク形式の「ミッドナイトポエッツ」にて行われた、「中原中也 朗読会」にアステリズム名義で参加してきました。

昨夜のお題は、中原中也の『汚れつちまつた悲しみに……』。不朽の名作ですね。

途中で配信トラブルにより途切れてしまったために、アーカイブはふたつに分かれてしまっていますが、合計5時間弱にもわたる朗読会となりました。

朗読会に参加された方は、計33名、それぞれの方のそれぞれの思いや技術が乗ったパフォーマンスは素晴らしいものばかりで、そして、それらをしっかり受けとめる中原中也の詩の「強度」を改めて実感した夜でした。

私は16番目での参加。どうやってこの詩を読んだらいいか考えた挙句、この詩に拮抗するために饒舌な散文を対置させようと思い、以下のようなテキストになりました。

聞き返してみれば感情に過ぎている気がしますし、もっと言葉を研ぎ澄ませられなかったか、と反省もありますが、それでも、今の私の悩みをストレートに書き記したテキストではあります。こんなこと考えたりしているんですよ、実は。

全文テキスト起こしして、ここに掲載しようと思ったのですが、しゃべっていてアドリブも多々あり(特に前半)、全文書き起こしは流石にちょっとしんどいので、朗読前に準備していた「たたき台」のテキストに若干の修正を加えたものを、ここに掲載しておきます。

タイトルは「中原中也の『汚れつちまつた悲しみに……』と拮抗するためにわたしはどれだけの散文を積み重ねないといけないのだろう」です。

2.中原中也の「汚れつちまつた悲しみに……」と拮抗するためにわたしはどれだけの散文を積み重ねないといけないのだろう

先週の金曜日にコロナワクチン2回目の接種をしてきたんです。
でね、1回目が割と副反応が軽めだったんで、油断してたんですけど、
副反応が結構きつくて、いっときは38度越えの熱が出て、
まだ熱がちょっとあるんですが。

梶井基次郎の『檸檬』での肺尖カタルのくだりを思い出したりしますね。

で、熱がある間、読書や映像をみたりもしんどくて、
もう、音楽を聴くしかないなあ、と。
で、昔から好きだった平沢進を時系列で順番に聴いていこうかなと、
改めて聴いてみると、平沢進の歌詞は面白くて、
いろんな人の影響を受けているんですよね、
スタージョンやカートヴォネガットジュニアとか、
あと、宮沢賢治。
この前の朗読会は宮沢賢治でしたね。
宮沢賢治は稀代の詩人だなあ、と改めて思ったりしますね。

今夜の中原中也、この人も稀代の詩人。
実はずっとちゃんと読んでなかったんですよね、
少し照れ臭いというか。

で、最近、ご存知の方もいるかもしれないんですけど、
私、短歌を短歌を作り始めたんですけど、
歌人である、と名乗ったりして、
短歌も、詩なんですよね。
いや、当たり前のことを言ってますね。
短詩形、短い詩の形式、ということで短詩形と呼ばれているわけです。

じゃあ、日本の代表的な詩人、中原中也も、
やっぱり読んどかなきゃいかんだろ、
上田敏や萩原朔太郎や宮沢賢治を
読んでおかなきゃいかんだろ。

で、読み始めたんですよね。
そしたら、やっぱりすごい、
やっぱりカッコいい、
気恥ずかしいって思っていた単語も、
韻律の中でやっぱり美しく、カッコよく響く。

でも、こうやって、優れた詩人の詩を読むたびに
思うわけです、
これでいいじゃないか、と、
この詩があるだけでいいじゃないか、と、
私が、もう、詩を短歌を読まなくったっていいじゃないか、と。

作るだけじゃなくて、
こうやって、朗読することすら、
もう、きっとこれまでに、何人も何人も何人も、
やってきて、読まれてきて、
今夜だって、きっと素晴らしい朗読が、パフォーマンスが、
あるに違いないし、あったに違いない。

ともすれば、中原中也を読むなんてことは、
手つきのおぼつかいない、
言葉の使い手によって、
手垢がつきすぎて、
どんな風に読んでも二番手、三番手、
もはや打つ手など、私には、
私程度の言葉では、手のとどかない、何かなのではないのか、
私が今朗読することに意味があるのか。

1934年に書かれたうたを、
1937年に30歳で世をさった中原中也の詩を、
「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。」
とアドルノが記したのは1970年。
今は2021年、
この2021年に、48歳まで生きながらえてしまった私が、
読むことに意味があるのか。

短歌を読んでも、未だ、五七五七七、
定型に収めることに未だ、汲々として、
詩情がどこにあるか、
ポエジーがどこにあるのか、未だわからず。
そこに、詩を詩を、
押韻を踏めば詩なのか、
繰り返せば繰り返せば詩なのか。

まして、齢は48、干支は5周目、
もはや、人生に残された時間は長くはなく、
熱情も激情も劣情も、もはやなく、
若い人たちからみたら、
枯れ果てた者にしか見えない、
見苦しいかもしれない、
あなたのいう詩なんてポエムでしょ、って揶揄されるかもしれない。

なんだ「ポエムでしょ」って!

詩は、歌は、
ダンテは「神曲」を書くことで、その後のヨーロッパを作り上げたように、
曹操の五行詩が有能な人材を世に導き出したように、
散文なんかじゃ届かないところに届くのが、
詩なんじゃないのか。

こうやって散文を、長い長い長い散文を、
積み重ねないと、拮抗できないような言葉が、
こうやって加速をつけないと、
読み切れないような言葉が、
賢治が朔太郎が佐太郎が邦雄が修司が弘が、
そして中也が。
立ちはだかり、立ちはだかり、

それでも、それでも、

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘(かはごろも)
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気(おぢけ)づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

中原中也「汚れつちまつた悲しみに……」(『山羊の歌』収録)

以上です、ご静聴ありがとうございました。



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