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一首評:吉岡太朗「六千万個の風鈴」より

鋏とは烙印(スティグマ)こっちが左手と教えるために残すきずあと
吉岡太朗「六千万個の風鈴」より(『ひだりききの機械』収録)

なぜだかわからない、わからないけれども、私の心はこの一首にすっかりやられてしまった。

この連作「六千万個の風鈴」は、SF的な世界が展開している。アンドロイドも登場する。だから、いや、だからと言うのも少し変かもしれないが、アンドロイドならば、ただ「こっちが左手と教える」ためだけに鋏で傷をつけることもありうるかもしれない、とも思う。

それでも、ありうるかもしれないと思いつつも、その行為はあまりに痛みと情報の重要性とで釣り合いが取れていなくて、切なすぎるのではないか、と思ってしまう。バランスを欠いた者の持つ切なさだ。

では、それは自分と無関係なものか。否。私は特に自傷癖を持たないが、それでも鋏やカッターや包丁といった、生活の中の刃物と相対したときに、それによって自分を傷つけてしまうことの想像から逃れることはできない。それは、私が人間だからであり、刃物が刃物であるからだろう。

だから、ここでの鋏は、鋏による烙印は、多くの人間にとって、決して遠いものではなく、(経験の有無に関わらず)身体感覚に直結する痛みと必然があるように思う。

そして思う。この痛みを伴うであろう烙印まで残して、いったい誰が誰に「こっちが左手」と伝えようとしているのだろうか。片方の手が左手であることを教えるためだけに刻まれる烙印、それは愛のようなものなのではないだろうか。

私はその、愛のようなものを感じて、この短歌にやられてしまっているのかもしれない。

最後に、各句の音数について。この一首は定型になぞらえれば「58577」となっている。ただ、意味的には二句のちょうど真ん中で切れているので、「9977」の句とも感じられる。「585」と「99」、まるで二拍三連の楽曲を聴いている時のようなクロスリズムの揺蕩いの魅力が上の句にはある。そして、下の句はきっちりと定型を守った「77」で淀むことなく終わっていく。この上の句と下の句のリズムの対比が、この短歌の生命力を生み出していると思う。

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