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noteで学振DC2のノウハウを公開する理由


学振のノウハウというものは、寝ていても耳に入ってくるような人もいれば、どんなに頑張っても手に入らない、そういう人もいます。

わたしは、前者でした。

最初にまず認めます。環境的に恵まれていたこと、これがわたしが学振に採択されることのできた第一の条件です。


ここでわたしは、所属している大学の名前の力、というような、不確実な、あいまいなことを言おうとしているのではありません(そんな事情など、こんな若手にどうしてわかるでしょう?)。名前の力以上に具体的な力を、わたしは持っていました。

親しい先輩・友人の中に、DC2受給者が二人、DC1受給者が二人、面接経験者が二人(うち一人合格)いたのです。

DC2受給者のお二人は、ほとんど専門が同じといってもさしつかえない方です。書類も見せてもらいましたし、経験談も聞きました。わからないこと、不安なことは何一つありませんでした。


環境の力を正確にはかることは容易ではありません。しかしわたしと同じ年には、全員それぞれ専門の違う同期がDC2に出し、わたし以外は全員ストレートで通りました(わたしは面接です)。つまりわたしの同期は全員DC2受給者です。

これがどの程度恵まれているのか、世間の標準からどの程度ずれてしまっているのか、わたしはおそらく正確にははかれていません。ただとてつもなく恵まれている、わたしは「普通」というものを知らない、ということだけは自覚しています。


わたしがDC2に通ると、他大学の研究会などで親しくしてくれていた後輩たちから、DC2の書類の書き方を教えてほしい、と頼まれました。

彼らも、世の中的にはいわゆる「いい大学」に所属しています。日本全体をみれば、研究環境としては恵まれているほうでしょう。彼ら個人の業績を見ても、けしてわたしと同じ大学の人たちに劣っているとは思えません。しかしそんな彼らの場合でも、学内にはDC2経験者を見つけることができなかったのです。環境が人に与える影響は、軽視できません。


迂遠な言い方をしてきましたが、どうやら、学振DC2に通るかいなかというのには、多分に「人脈」というものが関わってくる。わたしの観測範囲ではその傾向が認められるようです。


わたしも、たしかに「人脈」形成には熱心な大学院生だったといえるかもしれません。学部生の頃から他大学の勉強会に参加し、学会に顔を出してきました。修士の先輩に「あいつ何者…?」という顔をされつつも、博士の先輩の読書会に混ぜてもらって、いろいろ教わりました。

それは、「人脈」をつくりたくて行ったのではなく、ただただ勉強したくて、与えられたものだけでは満足できなくて外へ行ったのです。楽しかった。努力や投資、というつもりはまったくありませんでした。その結果、いろいろありがたい繋がりができたりもしましたが、それも、本当にお相手のご厚意ゆえというところです。


しかし目的意識を伴わなかったとしても、そうした結果を得るまでに、相応のコストを払ってきたのは確かでしょう。なるほど「人脈」は、ただで手に入るものではありません。恵まれた環境、つまりその大学院そのものだって、そもそもそれなりの倍率の試験に合格したからこそ入学を許されたのです。

自分がやりたくてやったことについては、自分がどれほど努力したか、どれほどのコストを払ったか、なかなか意識できません。

しかし、客観的にみれば、わたしは相応の投資と努力の末に、優秀な人に囲まれた研究環境を手に入れました。それは認めなくてはなりません。そうしないと、他の人たちが払った努力とコストも、わたしは見ることができないままになってしまうからです。


他大学の後輩から「DC2の書類を見せてほしい」と頼まれたとき、わたしは快諾しました。本当に優秀な、志ある人なのを知っています。お互い学部生の頃から、同じ研究会で意見を戦わせてきた仲間です。彼らの力になれるのであれば嬉しいし、自分の被った幸運、恩恵を広げられてこそ、ここにわたしのいる意味があると思いました。しかし、

「あなたがDC2に通ったのは、あなたの先輩たちが受け継いできたノウハウがあるから。それをあなたの一存で漏らしてよいの?他大学の人を利して自分の後輩を苦しめるようなことがあってよいの?」

このように止める人もいました。

そもそも、研究計画書を見せるということは研究者にとって何よりの財産である「ネタ」を見せることになりますから、慎重になるのは当然です。

そして、その人の言ったことは正しいのです。誰も仲良しごっこをするために研究をしているのではない。もちろんわたしもそうです。限られたパイを奪い合っている現状で、綺麗事はいえません。

わたしと同じ大学にいる人達は、その独占的に受け継がれてきた恩恵を得るために、それまで相応のコストと努力を払ってきたはずなのです。自分自身がその支払いを負担に感じなかったからといって、ないがしろにしてよいはずがない。それは例えばファンクラブ限定のライブの音源を勝手にYouTubeに公開してしまうのと同じようなことでしょう。


しかし、その方の言葉の「正しさ」を全面的に認めてしまうならば、わたしが受給できたのは、わたしの力ではない、そういうことになってしまいませんか?DC2なんてものは、研究者としての実力なんかよりも先輩から受け継いだノウハウがあるかいなか、そんなものだけにかかっていると。わたしはそう認めてしまってよいのでしょうか?


否、今ならばわたしははっきりとそう言えます。

わたし自身の資質や経験、また日本で高学歴の女性が置かれている状況、さまざまな要因がからんでのこととはいえ、DC2を受給しているということは、それなりにわたしを苦しめました。わたしの知っている他大学の後輩のうちの一人は、DC2に通らなかったら就職すると公言していました。今彼は、地方の工場で働いています。そんな人をおしのけて、どうしてわたしは今ここにいるのだろう。改めて詳しく書きたいとは思いますが、わたしの自己肯定感は何度も地の底に落ち、罪悪感に苦しみました。

しかし、その苦しんだ末の今ならば、わたしはもう言い切ることが出来ます。わたしはたしかに助けられはした。恵まれていたからこそがんばれた。だが、やはりわたし自身の力がなかったならば、DC2には通らなかった。


これは、わたし一人には限らないことだと思うのです。経験者の書類を見れるか見れないかが、全てを左右したりなどしません。わたしが誰に自分の書類を見せたところで、その人の合否は動かせません。ただ、経験者を知っているという精神的な余裕が変化を生んでいくだけです。

無論わたしはもう後輩を持っていますから、この大学院の「恵まれた環境」を形成する一要素になっています。その責任は自覚しなくてはなりませんが、しかし、わたし自身がその「恵まれた環境」に貢献している部分というのは本当にごくごく一部です。「DC2経験者であるわたし」と限れば、貢献度はさらに下がります。

わたしの大学の後輩たちは、わたし以外に、わたし以上に優秀な先輩をたくさん持っています。自分のライバルたちが、わたし一人の書類を見ていたところで、特段不利になったりするようなことはありません。わたしがDC2の経験を他に漏らしたところで、それは「ファンクラブ限定のライブ音源を公開」したようなことにはあたらず、「ファンクラブ限定ライブのセトリを公開する」程度のことにしかならないでしょう(例えがまったくうまくなくて、我ながら的外れですけれども…)。


ただ、環境的には恵まれない中で、一生懸命頑張っている、DC2を1つの灯火として頑張っているそんな人には、セトリでも小さな慰めくらいにはなりうるのではないでしょうか。たかが慰め、されど慰めです。

実質的な効力は何もなくても、不安材料が1つ解消される、それだけでどれほどいろいろなものが変わってくることか。皮肉なことに、わたしはDC2に関して思い悩んだことで、よく理解できました。

私はDC2に関する情報を持たない人たちの不安や、その不安がどれほどその人の能力の開花を妨げうるか、想像できます。あたっていないかもしれません、ごく一部にしか思い至っていないかもしれませんが、想像しようとする姿勢は持っています。その不安解消のための一助になれるのであれば、わたしは自分の持てるものを差し出したいと願います。


現在若手研究者の置かれている苦しい状況は構造的なものであり、今わたしたちにできることはとにかくサバイブすることでしょう。わたしがしようとしていることは、利敵行為でしかないかもしれません。

しかし、わたしたちはいつまでもこの構造に従うだけの者であってはならないはずです。若手のうちはサバイブするのが精一杯だったとしても、少しでも早く、この状況を是正してゆくための力(自分で動くことだけを意味しません、影響力を持つなり、味方をつくるなり、いろいろな方法があるはずです)をつけないと、未来そのものがありません。そのとき、生存に汲々としていたころに競合していた同世代の研究者たちは、ともに学界を運営していく存在となっているはずです。


それならば、わたしは、恵まれた環境にあぐらをかいていられる人たちだけではなく、いやそれ以上に、若手の苦しさをよく知っている人たちに上がってきてほしい。この先ともに戦ってほしい。そのほうが、人文系の研究そのものの寿命、ひいてはわたし自身の研究者としての寿命がのびるのではないか、そう思っています。

顔も名前も知らないあなたに、どうかDC2というチャンスをものにして、この先ともに頑張っていく仲間になってほしい。そう思っています。


ずいぶんと長くなってしまいました。

以上のような動機により、少しの勇気をもって、これから、学振DC2の書類を公開していきたいと思います。

ただ、先述の「他人の払ってきた努力とコストを尊重する」という意味から、有料ノートにはします。また、特定されるのが怖いので、ある程度フェイクはいれます(「ねこ」を「たんぽぽ」に置き換えるとか、そういうやり方です。公表する意味をなくしてしまうようなフェイクは入れません)。

わたし自身以外の人の研究計画書等に言及することは一切しません。わたし自身が他の方から受けた影響については消しようがないですが、なるべくわたし自身のことのみを公開するように努めます。


こういった諸々をご理解いただけましたら、よければ今後お付き合いください。どうぞよろしくお願いいたします。


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