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らしくないって、らしさって何よ、よく分からないんだけど、たぶんこんなかんじ

 時々感動したくなる。感動して心が打ち震えて「あぁ、生きててよかった」と思うがワンセット。最近の私はここに泣が入る。
 わりとここ最近は心が柔らかい状態だと自負してるけれど、なかなか感動に会わない。弱めの感動ではなくて、がーんと強いのが欲しい。ちょっとしばらくその余韻で過ごしてしまうくらいのであってよい。最後に強く感動したのはいつだったろう。やっぱり小学校の卒業時に流す予定の担任の先生の力作、音楽付きスライドショーかな。あれは、やばかった。泣も嗚咽級で涙腺が決壊したんじゃなかったかな。

 弱めの小さな感動の中にエモーショナルになってしまうのがある。音楽や映像を見ていわゆるエモくなるあれ。いつでも誰でもそうなるわけじゃないので、いざそうなるとどこかに書きつけたくなる。記録というよりも私も感動を表現したくなるのだ。レビューというか、とにかくアウトプットしたくなる。なのでやってみたわけだけれど全く上手く書けない。何なら本来伝えたいことが捻じ曲がってしまってるんじゃないかと思うほどに。しかし大幅に一部削除して修正してもなお残すのは戒めとして。ほら、あなたはこんなにも伝えたいことの半分も言葉にできないのよ、と自分に対して示すために。それがひとつ前の投稿。下書きに入れてもいいけれど一度公開したからそのままにしたかった、というところである。

 ハローワークの面談を終了した。もう年休がなくなったのだ。子どもが通う学校の催事にも行けない。結局良い仕事先は見つからなかった。そもそも私は何がしたいのだろうかと振り出しに戻った気さえする。何がしたいかよりもしなくてはいけないのは子どもを育てることなので、仕事なんて何でもいいじゃない、と言えないのがめんどくさいところだ。お金さえもらえたらいいじゃないなどと思えない。それはちょっと違うと思ってしまう。

 服も下着も靴もくたびれても即新調できないほど生活は全く豊かではないけれど、この心地は生きてる間しか味わえない体験だと思えば、わりと楽しめるから不思議だ。死んでしまえば俗世のありとあらゆることから己の肉体から解放される。一時苦しみや痛みや感情から解き放たれる。なので生きている間にたくさん感動したいのだ。さらには生まれた感動を言語化したい。自分で納得するかたちで言葉として綴りたい。難しい。難しいからこそ、やりがいがある。やりがいって頑張ってもお金に直結しないのにね。まずは本を読みなさいよ、と誰かに言われた気がしたのでそろそろこのへんで終わりにしよう。ちなみに最近仕事の休憩時間に立ち読みをしているのだった。勤め先に書店があるってよく考えたら最高の環境だ。たまには売上に貢献する。たまにね。

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