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『竹内涼真の撮休』から「演じる」ことについての個人的雑感。

 WOWOWのオリジナルドラマ、撮休シリーズ。今まで有村架純、竹内涼真、神木隆之介回と放送。最新は杉咲花。複数の監督と脚本家で作られたオムニバス。
 このシリーズの中で私が一番好きなのは『竹内涼真の撮休』だ。マネージャーが池谷のぶえさんであるところからして最高である。竹内涼真の誰とでも公平に接して物事に真摯に向き合う姿勢が本当にすばらしい。ラスト8話、ショービジネスの世界で成功しても何も本質は変わっていない点を友人にさらっと指摘されるシーンの心が震える感覚は言葉にならない。

 「演じる」とは、おそらく西洋では紀元前から娯楽として東洋それも日本では縄文時代より神々へ奉納するといった祭祀として始まったようだが、主に芸術の一環として今もなお演劇は身近な存在としてある。映写技術の登場により舞台で行われる演劇以外に映像の中で繰り広げられる演劇が生まれ、それらが一般化されているが映像加工の特殊技術が発達したとしても、その中心にあるのは人の演じるというフィジカルな要素に変わりない。
 繰り返し読んだ、まるで演劇の入門書『ガラスの仮面』では「二人の王女」の役作りに行き詰まっていたマヤに紫の人の取り計らいでマヤが演じる予定のアルディス役を過去演じた俳優から「感覚の再現」を伝授されるシーンがある。タイトルにもあるように、演劇の場において役者は仮面をつけ、感覚の再現をすることにより、その役として生きる。

 『竹内涼真の撮休』を観ると、昔出会った人の記憶や日頃諦めてしまいがちな正しさや今自身に与えられた課題を全うすることなどが布団から得る温もりのようにじわじわと私の中に伝わってくる。エンディングは「写ルンです」で現像したような写真が数枚音楽と共に流れるのだが「この一瞬一瞬が尊く、自分らしく生きるだけ」であったり、この世には数えきれないほど多くの人がそれぞれの人生を生きている事実であったりを浴びせられているような感覚に陥って感傷的になる。
 写真に写った一瞬はその場限りのものではなく振り返ることが可能なものとなるがその一方で形に残ることによって殊更にもう帰ってくることのない一瞬だと認識させられる。エンディングのみならず全体を通して不思議と大切な記憶をなぞっているような気持ちにさせられ見入ってしまうのは、やはり役者竹内涼真の力量の賜物ということだろう。

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