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時間がないから、本当に大切なことに向き合えないのか。大切なことに向き合いたくないから、忙しくしているのか。

デンマークから帰ってきてもうすぐ3ヶ月。体調も少しずつ戻ってきて、自分との約束だった旅のシェア会も終えて、会いたかった人たちにも会えて、やっと日常に戻ってきたというか日本に足がついてきた感じがしています。

旅のこともたくさん書きたいことはあるのですが、すごく長くなってしまいそうなので、それは少しずつ書き進めるとして、、

帰ってきて色んな人と会う度に、少しずつ自分の中に溜まっていく違和感みたいなものがあって、それがなんとなく言語化できるようになってきたのでまずそのことを書いてみようかなと思ったのでした。


効率性を手放したからこそ出会えた「今のわたし」

それは日本で普通に生きていると、自分の気持ちに向き合うとか、人生を考えるとか、きっと生きるうえで大切であろうことにじっくり浸る時間がないということ。自分の心に耳を傾けるとか、素直な気持ちを伝えるとか、カラダが望む通りの生活をしてみるとか、ずっとやりたいと思っていることをやってみるとか、そういう時間のこと。

わたしが今時間がある状況だからそう思うのかもしれないけれど、普通に生きていると「今のこと」「自分のこと」よりも、「未来のこと」「自分以外のこと」に割かれる時間のほうがずっとずっと多いような気がするのです。ワークライフバランスと叫ばれるようになって随分経つけれど、みんな本当に忙しい。そして、なかでも仕事が占める割合の多さはとんでもない、と。


それから、日本に帰ってきてテレビやネットニュースを見るたびに、よくわからない正しさの主張や先の不安を煽るような広告、恐れに基づいた判断の多さに改めてびっくりしたり。大人になって海外に行くと、自分探しの旅に出ていると思われがちだし、社会的な肩書きがないとこれからどうするのと聞かれ続けるし、そういう計画性のないわたしの生き方は確かに不安定な感じはするのだけれど、それはすべて本当なのだろうか…?

見方によっては何もしていないように見えるかもしれないけれど、今のわたしは今までやってこなかったことにやっと向き合えている感がすごくあって。これまでたくさんのことを「こなす」ことがすごいことだと思っていたわたしを捨てて、効率性を手放したからこそ出会えた「今のわたし」だと思えているのです。

50年も前から「モモ」が問いかけていること

そんななか久しぶりに「モモ」が読みたくなって、家にあった本を読み返してみたのです。1度目に読んだのは大学生のとき。いたく感動して卒論のテーマに「時間」を選んでしまったほど笑。2度目は3年くらい前に本屋で見かけて購入したのだけれど、そのときは「あれこんな話だったっけ」と思うほど響かずで本棚に置かれっぱなしだったのです。けれど3度目の今回は、まるで今のわたしの目の前にあることの写し世界のようで改めて衝撃を受けたのです。

周りの友だちが「一分一秒無駄にできない」とか「特にやりたいことがない」と口にしているのを聞いて、これはお話の中のことではなく今実際に起きていることで、ミヒャエル・エンデはそのことをずっと私たちに問い続けているのだなと。

「人間はひとりひとりがそれぞれじぶんの時間をもっている。そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ」

「時計というのはね、人間ひとりひとりの胸のなかにあるものを、きわめて不完全ながらもまねて象ったものなのだ。光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。ちょうど虹の七色が目の見えない人にはないもおなじで、鳥の声が耳の聞こえない人にはないもおなじなようにね。でもかなしいことに、心臓はちゃんと生きて鼓動しているのに、なにも感じとれない心をもった人がいるのだ」

「もし人間が死とはなにかを知ったら、こわいとは思わなくなるだろうにね。そして死をおそれないようになれば、生きる時間を人間からぬすむようなことは、だれにもできなくなるはずだ。」

遊びをきめるのは監督のおとなで、しかもその遊びときたら、なにか役にたつことをおぼえさせるためのものばかりです。こうして子どもたちは、ほかのあることをわすれてゆきました。ほかのあること、つまりそれは、たのしいと思うこと、むちゅうになること、夢見ることです。
したいしだいに子どもたちは、小さな時間貯蓄家といった顔つきになってきました。やれと命じられたことを、いやいやながら、おもしろくもなさそうに、ふくれっつらでやります。そしてじぶんたちのすきなようにしていいと言われると、こんどはなにをしたらいいか、ぜんぜんわからないのです。

灰色の男たちはほんとうのことを口にするのをおそれている、とモモは感じました。それを言うには、想像もつかないほどの努力がいるらしいのです

そしてわたしはモモのようなことをしたいのかもしれない、とも思ったのです。今のわたしは数年ぶりに時間があるし、出会う人たちからは「話していると楽しいし何より心地よい」「壁とかジャッジがない」「話した後に心が明るくなって、何だか前向きな気持ちになる」と言われることが増えてきたから。と言っても、わたしはただ黙ってその人の話を聞いているというよりは、相手の話を聞いて、ヒントになりそうなわたしの経験を話したり、その人に渡したい言葉を手渡すだけなのだけれど。


こんなふうに書いているけれど、今バリバリ働いている人を否定する気はまったくないし、実際わたしも20代会社員をしていたときは時間に追われまくっていた1人です。

起きられないから朝はタクシーで出社して、日中は問い合わせや営業の電話が鳴りっぱなしで、20時くらいからやっと自分の仕事ができて、気づけば終電に走って帰る。校了前は毎日深夜2時3時まで働いていたし、オフィスで朝日を見たことも何回かある。それでも休日は真っ白な画用紙を持ってスタバに行って新しい企画を考えていたくらい。取引先の人たちも本当にいい人たちだったし、仕事が本当に楽しくて、実行すれば数字が伸びていくのが楽しくて。新しい企画を考えるのも楽しいし、それを自由に商品化しても良いという裁量が本当に最高だった。やればやるほど結果が目に見えることが楽しくてしょうがなかったのです。

そういう時期ってあると思うので、そういうモードのときは突っ走っていくのもありだと思うのです。(身体に無理がない程度ではあるけれどw)
そういう時期を経たからこそ、もっと丁寧な生活がしたくなって、でも裁量権とかやりがいも欲しくて転職したりして、自分らしい働き方とかひいては人生でやりたいことを考えられるようになったので。

自分にとって大切だからこそ、向き合うのが怖かった

けれどそういう日々を経て、今やっとわたしのことだけに向き合う時間をつくったときに、今度は本当に自分と向き合わなくてはいけなくなって、そう願ったのはわたしだったはずなのに、どうして良いかわからなくなったのです。

時間がないから、本当に大切なことに向き合えないのか。
大切なことに向き合いたくないから、忙しくしているのか。

わたしはずっと前者だと思っていたけれど、実際は後者で、自分が大切にしていることに向き合うのが怖かったのだと思うのです。怖いからいつも予定を入れて忙しくしたり、インプットに走っているようなところがあったり。けれど、自分の時間ができたことで、それをやるしかない状況になってはじめて、やっと今怖いことと向き合うということをたくさんやっています。

自分の心に耳を傾けて、素直な気持ちを伝えること。
自分の経験や才能を価値に変えて、お金をもらう経験をすること。
何者でもない自分を受け入れ、そこからはじめること。

大切なことに向き合うには、日常の中の一部の時間、タスク的に割り当てられた時間では難しいと気づいたのです。ちゃんとそれだけのための時間をとることが必要だし、それには相当なエネルギーが必要だということに。

それから一番は、自分にとって大切だからこそ向き合うのが怖かったんだなと。やってみて失敗することが怖かった。やってみて傷ついたりどうにもならなかったときに、そういう自分や状況を受け入れることが怖かったのかもしれないなと。けれどこの数年でネガティブな部分を自分の一部だと認められるようになったから、失敗してもまたそこからはじめればいいし、ずっと頭でやりたいと思っているだけの状態より前に進めるなと気づいたのです。

もちろん大切にしたいことは人それぞれ違うと思うので、そんな大したことって思われるかもしれないけれど、わたしには自己開示と自己表現ってとても大きなハードルに見えたのですよね。

自分として生きるための時間は、積み上がっていくもの

イギリスのシューマッハカレッジで、サティシュにもらった言葉。

自分を愛すると自分に約束すること。

朝起きて、朝ごはんを食べて、
仕事をするように、愛すること。

自分の好きなことをすること。
自分の嫌いなことをしないこと。

何かを除外することなく、すべてを愛すること。
そうすればそれはあなたの世界の一部になっていく。

自分をまるごと受け入れること。
自分を表現することから逃げないこと。
自分との約束を守ること。違うことをしないこと。

いつも書きたいことはたくさんあると思っていて、伝えたいことはたくさんあるはずなのに、PCの前にいざ座るとなぜか他のことがやりたくなってしまう。いざ書こうとすると片付けたくなるのなんて、まさに先延ばしの心理。けれど、こうやって「書く」という作業は心の中の片付けみたいなもので、今こうやって書いているだけでもいかに思考がまとまっていないかを思い知らされるし、書くことで自分の頭が整理される気がするのです。

書き進めるうちに、またわたしは逃げようとしていたことに気づいたり。何者かになってから始まるのではなく、何者でもないわたしではじめようと言いながら、そういう自分をまだ心の底で認めてあげていなかったことに。

けれど多分、自分として生きるための時間は、積み上がっていくもの。こうして今過ごしている時間こそが、きっと未来のわたしを支えてくれると信じられるから、次の景色が見えるまでこの時間を大切にしてみようと思っているのです。

最近、突然iPhoneが壊れたのですが、たった数時間だけだったけれどスマホなしで過ごした時間はわたしが思っているよりずっと長かったのですよね。そして、街にはほとんど時計なんてなくて、自分のなかにも時間の感覚がなかったことに気づかされたのです。

自分の時間を持ち、人生を考えることが当たり前になる世界へ

わたしが訪れたデンマーク、Nordfyns Højskoleの創設者である千葉さんの言葉。

日本にも「幸せな人生とは何か」と考える学校が必要だよね。
それぞれ違う場所で生活している大人が集まって、共に時間を過ごし生活しながら、人生を考えたり、社会のことを考えたりする場所。
1週間とか10日とか短くてもいいから、国民が休暇のときに気軽に来れるような場所があるといいね。

まずは、自分の時間を取り戻すこと。後回しにしてきたことにちゃんと取り組むこと。そのうえで、みんなが大切にしたいことを大切にできるような場づくりをしていくこと。それがわたしの夢でもあるので、そういうことを少しずつ進めていきたいなと思っています。


ここ最近更新していなかったnoteなのですが、デンマークで出会った友だちが、わたしのnoteを見て「フォルケフォイスコーレってよくわからないけれど、絶対に行ったほうがいいやつだ…!」と思ってくれたということを聞いてすごく嬉しかったのと、久しぶりに手紙を書くことがあって「誰かに向けて自分の気持ちを書く」ということが想像以上にわたしの心を整理してくれることに気づいて。
そういうできごとが、自分の書きたい気持ちを後押ししてくれて、もう一度この場所を開いてみよう、と思えるようになったのです。

どうしても長くなってしまうから、もっとサクッと書けるようになることをめざして笑。明日も書き進めようと思います。

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