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めいそう日記Ver2〜Day76:はっきりさせない

1. 瞑想小咄〜はっきりさせない

とかく今の時代は0か1か、白か黒か、あっち側かこっち側かの態度を表明することが強要されているような気がする。確かに、どちらかの立場を明らかにすることは、自分の意見をはっきりと述べる助けになるため、有効な側面はあるだろう。

ただ、どちらかの立場を明確にすると、自分の立場とは相容れない側に対しては否定の意思や敵対の意思を示してしまう恐れも孕んでいるように思う。自分の側が正しいことを信じて、最後まで戦うという意思を持つことは素晴らしいことではあるのだろうけれども、どこかモヤモヤとしたものが心の中に残る。

先日、伊勢神宮の方とお話をする機会があった。その際にお尋ねしたことがある。伊勢神宮は内宮と外宮の正宮を頂点として、それ以外にも中位のお宮から小さなお宮までたくさんあって、全部で125社の集合体だ。

ある程度大きなお宮の場合、「ここに祀られているのは⚪️⚪︎という神」と明らかにされてるところもあるが、小さいお宮だと、そこにどんな神がお祭りされているのかがはっきりと伝わっていないところもある。

何をお祀りしているのかわからないのはなぜなのか、ということを聞いてみたところ、小さなお宮の中には記録として残されていない場合があるからなのだそうだ。

ただ、そこにどんな神がいらっしゃっているかははっきりしていなくても、それは大きな問題ではなく、過去から大切にされてきた何らかの神がいらっしゃるのは事実であるから、現在でも大切にお祀りしているということだ。

昔においては、人間である私たちでさえ、自分の名前をやたらめったら他人に教えていたわけではなかったそうだ。自分の本名を教えるのは配偶者であったり家族であったりと、本当に近しい人のみ。それ以外の人たちには、俗称で呼ばれることがほとんどだったのだとか。

これはおそらく呪術的な意味もあるのだと思う。名前は自分の魂のようなものなので、人に自分の名前を教えるということは、自分の魂に触れさせるようなものだと考えられた。だからこそ、名前は秘密のものだったのだろう。

自分が何であるか、自分の立場が何であるかをはっきりとさせなくても、自分が自分としてそこにいればよい。たぶん、こういった、ある意味なあなあの考え方が、日本に昔から根付いているのだろう。

なあなあの考えは、世界の中では通用しないことが多いが、かといってどちらかの立場を鮮明にすることはリスクも伴う。現在の世の中、あちらこちらで二極対立図式が生まれ、その間で争いが繰り広げられている。あえて「はっきりさせない」という方法を取ることは、一つの戦略になるのではないだろうか。

2. 今日の瞑想〜2023.10.15 Sun 8:35〜(10min)

今日は雨の日曜日。一日の始まりに瞑想をしよう。

今日はこの誘導瞑想。

横になったままでスタート。深呼吸をする。お腹の底までぐっと息を吸い込み、ゆっくり口から吐いていく。それを繰り返してから、意識を鼻を出入りする空気へと向けていく。

しばらくはガイドの声に従って、身体の内側に意識を向けたり、イメージングをしたり。ただ、今日見た夢があまりにリアルで強烈だったため、その記憶を何度も思い出していた。

最後まで瞑想して終了。

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