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めいそう日記〜Day347:本居宣長は現代を如何に見るか(後編)

1. 瞑想小咄〜本居宣長は現代を如何に見るか(後編)

本居宣長は松阪の商人の家に生まれた。松阪は江戸時代に盛んになったお伊勢参りの影響を受け、お伊勢参りをする参拝客で賑わう商いの街であった。商魂たくましい松阪商人の中には江戸に進出して大成功した者もいる。そのうちの一人が三井家であったり、国分グループの創業者であったりする。

幼い頃、宣長は行き交う参拝客を見ながら「日本ってなんなのだろう」という疑問を抱いた。全国各地から伊勢にやってくる人たち。出自は違っても、遠方から伊勢にやってくる。現代風の言葉でいうと、日本人のアイデンティティは何かについて疑問を抱いたのだろう。

それから時が過ぎて『古事記』に出会う。『古事記』は日本最古の書物であるため、古の祖先が何を考えていたか読み解く手がかりになると考えた。この宣長の考えは私も同感。大学時代、私自身も日本人のアイデンティティに興味を持って、参考文献に選んだのが『古事記』だったからだ。

宣長は『古事記』を前にしてある問題点に気づく。それは江戸時代において、『古事記』を読み解ける人がほとんどいないという事実だった。古の言葉がわからないのであれば、自分達のアイデンティティを正しく理解することができない。それに危惧を覚えた宣長は、長い年月をかけて『古事記』の訓読・注釈本である『古事記伝』を執筆したということだ。

ちなみに、『古事記伝』の執筆に至るまでに宣長はさまざまな古典研究をしている。『源氏物語』はその一つであるし、宣長の師匠にあたる賀茂真淵からは『万葉集』をよくよく学ぶようにと諭された。『万葉集』には『古事記』が執筆された頃の人々の歌がたくさん収録されており、歌からは当時の人たちの感性を学ぶことができるためだった。

さて、そのような危機感から古典研究に没頭した宣長。もし宣長が現代にいたら一体どのように思うだろうか。すでにわからなくなってしまった感性や、読めなくなってしまった古典が山のようにあることに気づくだろう。

「わからなくなった」ということはすなわち、その時代の人にとってはすでに不要になったものとして理解することもできる。不要なのであれば、流れに任せてそのまま捨ててしまえばいい。おそらく、それによって困ることはほとんどないだろう。

グローバル化が進み、かつバーチャルと現実が近づいている現代において、ひょっとしたら、国としてのアイデンティティとか、感性とか、そういった曖昧なものは不要になっていくのかもしれない。世界的な共通化が進むことで、よりロジカルに、わかりやすくなることが重要視されているためだ。

それが時代の流れの本流であると宣長に私たちが説明したとして、宣長は一体どのように受け止めるのだろう。

宣長が生きた時代においては鎖国していたとはいえ、状況としては現代に被る部分がある。「古のことがわからなくなっている」ということだ。「古のことがわかる」ことによる経済的なメリットは、おそらくほとんどない。しかし、宣長は「古のことがわからなくなること」について警鐘を鳴らした。それはなぜか。

正直なところ、はっきりとした論理的な理由はないのではないかと私は思う。ただ漠然とした危機感のようなものがあったのではないだろうか。今、私も同じような気持ちだから、なんとなくわかる。明確な答えはわからなくても、過去の中に何か失ってしまってはいけない大切なものがあるのではないか。そんな漠然とした思いが、自分の心の中に焼き付いているような気がする。

これから自分はどうすればいいのか。本居宣長の旧宅の、かつて宣長が門人と議論をしていた部屋とされる場所に一人座って、そんなことを取り止めもなく考えていた。

2. 今日の瞑想〜2022.9.29 Thu 6:25〜(20min)

昨晩は疲れたので早めに就寝。ゆっくり寝たので身体の疲れはぼちぼち楽になっている。今週もあと2日。瞑想で自分を整えよう。

今日の瞑想音楽はこれ。

姿勢を正して目を閉じる。呼吸も整える。早速いろいろな思考が湧いてくるが、それを流す。

今日は瞑想中に自分に問いかけてみることにした。「今日は何をしようか?」と聞いてみたところ、しばらくして思考の合間に先程の問いの答えが返ってきた。

もともと予定していた内容とは違った内容の答えが返ってきた。しかも予定していた内容よりも合理的で、かつ気づいていなかった元々の予定にあった落とし穴にも気づかせてくれた。

直感というのは、思考との区別がつきにくいと思う。しかし、瞑想中など自分と向き合っているときは比較的判別しやすいのかなと感じた。


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