規則を守ることについて

 規則というのは、その集団がうまく生きていくのに役立つための実際的なシステムであり、全てのシステムがそうであるように、実験的なものであると思っている。
 規則そのものには意味があることもあれば意味がないこともあり、それは基本的に時とともに変化し、ときに改善され、ときに改悪されていくものである。

 一個人が規則を守るべきか否か、という点において、私は意見を持たない。実験が好きな人間と実験が好きでない人間がいるのと同じで、規則を守るのが好きな人間と、そうでない人間がいるというだけのことだ。

 私は大規模な実験が好きだ。法律というもの自体が、誰かが真剣に考えたうえで、それが人々の役に立ち、生活をよりよくするために作られたものである都合上、それが人を幸せにしようが不幸にしようが、それはひとつの実験結果として歴史上に現れるので、この現代社会で生きている以上は、私は法律を守ることにしているのだが……
 だが、なのである。法律に反対したり、あるいは破るようなこともまた、歴史的に見ればひとつの実験結果として成立するし、そもそもそういう「集団によって信じられている規則」は、一個人が守らなくてはならない道理などない。もしある個人において、法律を守らないことがその人間にとって得になる場合(損にならない場合)それを守る理由はない。だから法律には罰則がついて回るし、それによって人の本能的な「損得勘定」を利用しているのである。基本的に遵法精神というのは、法律を守る方が得である社会においてしか成立しない。日本人の道徳意識が高いのは、警察の能力が高く、かつ道徳意識を高く持っている人間が多いため、そうであることが得でないと困るからなのだ。道徳的でない人間がいた場合、そいつらを叩き潰さないと、自分たちがベットしている側が馬鹿を見ることになるからなのだ。
 別の言い方をすれば「私は正直者である。ゆえに、正直であることは得でならなくてはならない。嘘をついた人間は罰することにしよう。正直者であるならば、この意見には同意するしかないはずなのだ」ということなのである。

 人間はどうあがいても利己主義的であり、その利己主義が自然的であればあるほどに、社会がより強力なシステムを持っている場合、道徳的になる。善良になる。その方が得であるからなのだ。

 言ってしまえば、こういう社会環境において、規則を破る人間は両極端になる。極めて貧しい人と、極めて豊かな人である。貧しい人の場合は、自分の能力の低さや頭の悪さ、あるいは追い詰められてしまったせいで、判断を誤り、道徳的にまずいこと、つまり損になることをしてしまう。彼らは弱いから、基本的に大多数の利己的な道徳主義者たちに徹底的に叩きのめされる。かわいそうなことだ。
 豊かな人の場合は、自分の立場が強く、そして安定しているため、多少のリスクが怖くないのである。規則を破り損を被ったところで、自分と周囲の安全と、豊かな生活が脅かされないことが分かっている場合、規則を破ることに抵抗がなくなるのである。「多少のことは何とかなる」という精神である。ただこの場合、大多数の利己的な道徳主義者たちが怒り狂うため、彼らが想像していた以上の罰と被害を受けることは少なくない。こちらもまた、少々かわいそうだ。


 さて、なぜ私がこんな言い方をするか分かるだろうか。私は道徳主義者の側に立っていないが、なぜそうなのかと言えば、私自身が、利害関係という点で、もうすでに色々と終わっている人間であるからだ。働くことのできない人間であり、病人と呼ぶにはあまりに健康。しかも、口達者であり、愛想もいい。この社会において、ある意味において厄介極まりない存在なのだ。扱いに困る存在なのだ。
 私は犯罪者や、規則を守らない人間とも、ある程度は仲良くなることができる。先ほどから私が少し馬鹿にしている「利己的な道徳主義者」たちと仲良くなれるのと同様に、彼らとも仲良くなることができる。
 なぜか。私はその両方から自らの利益を引き出すすべを心得ているからだ。同時に、私は他者から不当に利益を引き出すことを好まないので、私はただただ、その関係性自体を楽しもうとするだけだからなのだ。

 要は、私の目の前の人間がそれまでどんなことをしてきたかとか、他者に対して何を言ったかは、私の目の前でそれをされていない限りは、関係がないのだ。それを知っていて、私がその人に対してどのような評価を下しているかということが、私自身のその人の態度を決定する要因として、それほど大きくないからなのだ。
 人間は、互いに鏡のようなもので、好意的な対象に対しては好意的に接するし、敵対的な態度を取ってくる相手には、敵対的な態度を取ってしまうものだ。
 人間というのはそれぞれが思っているほど独立した存在ではなく、環境や、その場面によって、全然異なる人格と、性質と、気質を持つ。特に私のような、ひとりでいることの多い人間の場合はそれが顕著であり、私とふたりきりで少し話すだけで、その人自身が自分自身を見失うようなこともたびたびある。
「あなたと話している時の私は、他の人と話している時の私とは違う私であるような気がする」
 実際に、何人かからそう言われた経験がある。それはおそらく、私に限った話ではなく、常に人々の間で起こり続けていることなのだ。ただ自覚することが難しく、私に対してそういうことを言う人は、私のこの自覚的な性質がうつったことによってそう考えて、言葉にしたのだと思われる。
 つまり、ある人がこの社会における大多数と付き合う時に悪人であったとしても、私とふたりきりでいるときは、まるっきり善良である、ということのが全然あり得るし、むしろそういうことばかりなのである。私は自分が、人を落ち着かせ、和ませ、困惑させ、驚かせ、楽しませ、そして疲れさせる人間であることを知っている。


 私の言葉は基本的に反道徳的だ。私は道徳を重く見ているが、それを信じている人のように、絶対的なものだとは思っていない。
 あらゆる現実的な規則や法律は、歴史的な見地で見れば、実験にすぎない。それを守るか否かは、個人の利害と信念によって決定されるので、それを守らなくてはならない理由などどこにもない。発言による責任も同様である。言っていいことと悪いことは、それを言うことによって生じてくる、当人への結果によって決定されるため、発言そのものによしあしなど宿っていない。
 流行ほど軽いものではないが、しかし絶対的なものではないし、単なる時代特有のものでしかない。

 私は自分が特殊な人間であることを自覚しているし、そういう意味において、失言することがあまりに少ない人間であることも知っている。相手が嫌な顔をした瞬間に、相手がなぜ嫌な顔をしたか考えたり尋ねたりして、すぐに謝ろうとする人間なのだ。ある意味において、対話しかできない人間であり、大多数の前に立つと、無難なことしか言えなくなる人間なのだ。それほどまでに、臆病なのだ。そして私は、自分の臆病さをそれほど悪いものだとは思っていない。


 言い忘れていたが、規則を守るのが好きな人間というのがいる。損得勘定抜きで、規則を守るのが楽しいという人間がいる。そういう人間は基本的に豊かである。実験好きな人間なのである。人間的な人間なのである。
 彼は、縛りのことを窮屈だとは思わず、むしろ、その縛りこそが創意工夫の余地を産むのだと知っている。そういう人間は、気分のいい子供っぽい利己主義的気質をもってして、自分の工夫や楽しみを台無しにするような、規則を守らない人間を憎んでいる。
 彼は犯罪者や規則違反者に興味を持たない。あるのは敵意だけだからだ。嫉妬していないから、悪く言うことすら嫌う。自分のやっていることの邪魔さえされなければ、それでいいと思っている。
 私は彼とは異なる人間であるが、そういう人は好きだ。私は実験好きな人間と相性がいい。私自身、実験することや工夫すること自体はそれほど得意ではないが、それを観察し、解釈することはとても得意だからだ。

 実は私……そういう人との方が相性がいいのかもしれない。

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