松下幸之助の『一日一話』を読んで

 進歩主義的で楽観主義的。本来なら読んでいて気分がいいはずなのだけれど、私はこれを読むとどこか気分の悪さを感じる。
 私自身が社会に対して敵意を抱いているからかもしれないし、そもそもちゃんと仕事ができていないからかもしれない。
 私は私自身の進むべき道をまだ決めることができていないうえ、私にアドバイスをしてくれたり引っ張ってくれたりする年長の人もいない現状で生きている。
 私はあまりに多くの人の意見を聞きすぎたせいで「その通りだ! 従おう!」という気にはなれない。神からの啓示でもない限り、自分の人生を何かに捧げようとは思えなくなってしまっている実情がある。
 情熱をもって、とか、熱心に、とか、たゆまない努力の結果、とか。私は別にそういうものを軽んじるつもりはないし、そのように生きている人をむしろ積極的に褒め称え、尊敬するつもりなのだが、私自身が同じように生きることができるかと言われると、否なのだ。死んでも、彼らのようには生きたくないのだ。
 心のどこかで、軽蔑の気持ちがあるのを、認めざるを得ない。そう思いたくないのに、そう思ってしまっている自分がすでにいることを自覚する。自覚したうえで、それをなくすことができないのを知っている。

 私はかつて熱心に高校受験に取り組み、そして成功したうえで、くそくらえだと思った過去がある。その時点で、その先を順調に生きている人を素直に尊敬することなどできないのだ。私が捨てた道をそのまま朗らかに生きている人を、私は成功者と見做すことができない。
 私の無能力ではなく、私の選択の結果としてそちらを選んだのだから、軽蔑のまなざし以外を向けることができないのだ。
 努力にどれだけの価値があるだろう。その努力の結果、何が得られただろう。私は、断固とした強い意思と目的意識をもって為された努力以外は、無駄だと思っている。

 私はそれが欲しいけれど、私は社会なるものや、不特定多数の他者なるものに価値を見出せない。断固とした強い意志も、目的意識も、彼らは持っていないじゃないか。その日暮らしの人間ばかりで、そうじゃない人間はそもそも自立しているから、それこそ私の助けなんてなくても生きていける。
 弱者を助けるのは、それに喜びを見出す人間の役目であって、それに良心の呵責を感じる人間の関心事ではない。私は弱者とされる人を助けた時、己を恥じた。なんて恥ずかしいことをしているんだろう、と自分自身が嫌になった。
「お前は何様のつもりだ」
 実際に聞いた言葉じゃない。だが彼らの目が私にそう言っていた。
「恵まれた環境で育ったから、そんなことが言えるんだ。できるんだ。お前に私たちのことは分からない」
 彼らはもうすでに満足しているじゃないか。毎日くだらないテレビを見て、スマホゲームでポチポチして、SNSで似た者同士つるんだりしながら、人生を浪費する。
 彼らは幸せそうだ。どうしてすでに幸せそうな彼らを私がどうこうしようと思わなくてはならないのだろう? 私の責任は、私自身はもちろんのこととして、他の場所に向かうとしたら、どこに向かうべきなのだろう?

 「この世に不必要なものなどない」という人は、健康そうに見える。そして、少なくともそういう人には「お前は不必要な存在だ」と言われる必要はないから、安心して接することができるのもまた事実だろう。
 私は二重の意味で気持ちが悪い。
 そういう人がいたところで、やはり大半の人間は自分の人生に「不必要」とされるものを日々切り捨てて生きているし、仕方なくそうしているというよりは、そうしたくてそうしているように私には思える。私自身もそうであるし、そういう生き方自体の否定であることも、解釈上間違ってはいないのだ。
 次に、そうやって「自分は許されている」という安心感をもって生活することに、私は気持ちの悪さを感じている。私はもしかしたら不安が好きなのかもしれない。安易に人を安心させるような言葉を警戒する。危険な状態が差し迫っているのに、安心を説くような人を今まで何度も見てきたし、そのせいで取り返しのつかないことになった事例もいくつかある。
 私は心のどこかで、自分が「常に不安を抱いているタイプの人間」でなくてはならないと思っているのかもしれない。そういう人間は、どのような共同体にも少しは必要であり、そういう人間がいなくなった共同体は簡単に滅びていく。

 大いなる不幸によって身を亡ぼすことを防ぐために、あえて自分自身の感情や心情、その日の生活を犠牲にして耐え忍ぶというのも、人類が今まで何度も行ってきた策であることを忘れてはならない。

 ものごとを楽観的に捉えすぎているのを見ると、やはり私は気分が悪くなる。
 「お前はそれでいい」と思う反面「私はお前とは違う」と感じる。それでいいのだろう。

 私は基本的には悲観主義者なのだ。あえて、こちらを選んでいるというのが正しい。その方が自分の性根に合っている。私にとっては、不幸を背負っている方が、幸せをより多く感じられるのだ。

 相容れないけど、否定するつもりはない。気分は悪いけど、その本自体を悪いものとは思わない。

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