一週間何も書かないようにして分かったこと

 何が分かったかって聞かれても上手に答えられないから、その日その日考えてたことをできるかぎり思い出してみるね。

 まず一日目と二日は、ずっと落ち着かなかった。しんどかったし、精神的にも不安定になってた。
 「何も書いていない」という事実が苦しくて、いろいろ別のものに手を付けようと思ったけどうまくいかなかったし、他の人の言葉がいつもよりもよく自分の胸に、変な響き方をして残るので、気持ち悪かった。
 どう考えても私を責めてるわけじゃない言葉が、どうにも形を変えて私の胸に残って、それが私を苦しめ続けるのだ。

 フランス語の勉強をちょっと前からはじめてたから、いい機会だと思って時間増やしたんだけど、全然ダメだね。あ、でも、フランス語勉強してて気づいたことがひとつあって。他の外国語勉強する過程で英語への翻訳や英語からの翻訳もするんだけど、全然英語が苦手じゃないって気づいた。書けないし、喋るのはもっと無理だけど、辞書片手なら割とすいすい英語読めるなぁって。いやまぁ、中学の間はちゃんと勉強してたし、単語力はないけど文法は一応一通り理解してるから、そりゃ、読めるっちゃ読めるよね、ってだけ。

 図書館で本借りてきて色んな本読んだんだけど、やっぱり私は古典が好きなんだなぁと再確認した。最近の本で気になったものもついでに借りてきたけど、やっぱり……あんまり好きになれない。なんか「読者の役に立とう!」っていう感じが、気に入らない。いやもちろん、そういう態度が悪いってわけではないんだけど、あまりにも非精神的というか、ビジネスライクというか。温かみを感じられないから、さ。やっぱり、文章にはかなりの量の作者自身が含まれていて欲しいんだ。本読んでてそう思った。

 あと、暇すぎて昔書いてた読書ノート読んでた。何というか、昔の、自分で自分を追い詰めるような思考に触れると、なんか悲しくなる。あと兄さんが書いてた日記も読んだ。やっぱり私たちは似てるなぁと思ったし、もしかしたら幼き日の私が無意識的にそう寄せてたのかもしれない。まぁいずれにしろ何というか、昔の自分の足跡を見返してみると、少し安心する。自分がただその時間にふわっと浮かんでいるのではなくて、過去が下から今の自分の支えているのだと思うと、安心する。自分がいつもいつでもダメなやつだったわけじゃないという証拠でもあるし、私が残しているのは一番頑張ってた私だから、素直に過去の私を感覚的に応援したくなるし、その感情が結果的に今の自分にも及ぶから、前向きになれる。
 つまりさ、自分の忘れてしまった過去っていうのは、ほとんど他人なんだよ。だから、自分の目で、自分の過去が愛らしく思えるなら、当然それと繋がっている今の自分だって、愛らしく思えるんだよ。どうしてもさ、「今の自分」っていうのは、醜く感じすぎたり、美しく感じすぎたりしてしまうんだよ。自意識って、そういうものだから。でも、少し時間を置いた自分の姿は、冷静な「他者の目」で見れる。自分がいったい何だったのか「分からない」ということが分かる。きっとそれが誰にも分からないということが分かるし、それだけで安心できる。分からないなら、分かったような気になってる言葉全てを、気にしないでいられる。

 自分に向けられた、自分自身や他者からの偏見が、あくまで一面的な見方に過ぎないことを理解する。きっと私を悪く思う人がいたとしても、その人の私に対するあらゆる印象の反論は、すでに私は書いている。だって私自身が、かつて誰よりも私自身を悪く思っていたし、厳しくしていたんだから。だから今更、そのことでは悩まない。(悩まないと決めていても、それを忘れてまた悩んでしまうんだけれど。それでもいいんだ。悩みは悩みで私を深くする)

 三日目四日目あたりは、ただ苦痛だった。書きたいと思うことは多かったし、架空の人格と会話する時間も増えた。私は自分のことが好きになれなくなると、自分が好きになれる他者を思い浮かべてその人と楽しく会話をする。私はその人が好きだし、その人は私が好き。でも現実は、真実は、その両者とも私なのだから、当然私は私のことが好きなのだ。そういうちょっとした後付けの理屈が、私を自己嫌悪から救い出してくれる。りっちゃん万歳。彼女も一応私の一部であるし、私の中にも彼女のような部分があるということを私は知っている。

 五日目以降はだんだん慣れてきて、苦しくなくなってきた。あと、過去の日記を見るのに飽きてきたから、代わりに自分のnoteを読み返すようになった。
 それで、思ったんだよね。私、私の文章が好きだ。色んなの書いたし、変なのも結構あるけど、それでも自分の文章が好きだ。
 矛盾してしまっていたり、過去の私が「こうであってはいけない」と書いたような人間に、そのあとの自分がなってしまっていることも時々あって、そういう不完全な人間らしさ、言い換えれば幼さのようなものも多分に含まれているから、無条件で信頼できる文章ではないけれど、でもそんなことを言えば、無条件で信頼できる文章なんてあるわけないし、あってはいけないものだ。ただ人の心をほんの少しでも動かすことが重要だというのなら、私の文章は、十分すぎるほどそれに見合うだけの能力を持っている。
 あと、単に美しいよ。一生懸命生きているし、書いている。そんな感じがする。私は私の文章に対して「そこにいるだけでいい」と思える。たとえ誰もそれを評価しなかったとしても、綺麗な花が道端に咲いているのを見つけた時のように、「そこで、それが咲いているというだけでいい」と思えるのだ。だって、それは私の心を慰めたのだから。それで言葉の価値としては、十分なのだ。

 ただそう思うと同時に、そういう人の心を動かすことのできる文章っていうのは、存在そのものが価値であり、共有された財産でもあるから、できるだけ多くの人のものになればいいとは思うんだ。希少なもの、価値あるもの、美しいもの、普遍的なものは、誰かひとりや、少数の人間が独占していいものではない。万人に分け隔てなく贈られるべきものなのだ。私はそういう観点からみると、私の文章を味わってくれる人が少ないことをとても残念に思うし、同時に、こんなに私は目立たなくて、すぐ他者との間に壁を作ってしまう存在なのに、それでも読んで、楽しんでくれている人がいるという事実が、私を喜ばせる。それが何よりも、嬉しいのだ。

 私は利己的な人間だけど、それ以上に、利他的な性質を多く含む人間なのだと思う。私は人を喜ばせたいし、その対価としては何も必要がないと思う人間なのだ。誰かが喜んだ、というその事実でしかない事実自体が、私にとって報酬となる。その事実の認識だけで、私はどんな贈り物を受け取ったときよりもはるかに大きな喜びと幸福を得ることができる。それは理屈ではなくて感覚だから、うまく説明して伝わるものではないけれど、でも、私の心はそういう風にできている。そういうことは忘れないでいたい。

 文章を書かなくなってから、一週間がたった今日この朝を、私は落ち着いて迎えることができた。小さな期待と「何を書こう。書きたいことはたくさんあるぞ!」という、力の感覚。この感覚をどう表現すればいいのかは分からないけれど、ただ、期待感とも迷いとも言えない、ただ内側からこみあげてくる、私自身の感覚が、私を喜ばせるのだ。

 書くことができる。伝えることができる。そして私は、過去に私が書いたものを読んで、理解することができる。それに感動し、涙を流すことができる。
 私は幸せな人間であるし、幸せであるからには、より多くの人にそれを広げたいと思うのが、自然なことだ。ただ私の幸せは、おそらく多くの人には理解できないだろうし、押し付けられても迷惑だろうから、こういう形でしか、私は贈ることができない。ただ、書いて、伝えるだけ。それをどう受け取るかは、それを読んだ人自身が考え、決めることだ。

 これからも私は、自分が書きたいと思ったことを書いていく。そのときそのときで、自分が何を書きたいと思うかは、私自身にもよく分からない。でもそれでいい。私は私の性格や心が好きだから、それをできるだけ自由な形で表現していく。私は、それを価値あることだと思っている。私の心には価値がある。美しく、血が通っているからだ。それが、私自身であるからだ。

 私にはこういうことしかできないけれど、言い方を変えれば、こういうことしかできないからこそ、それをずっと続けることができる。私は今、自分が幸せな人間だと思っている。自分がやりたいと思ったことが、あとの自分にとって価値のあるものに、必然的に、なるしかないという事実が、運命が、何よりも私を喜ばせる。
 私が生きていた、書いていたという事実が、将来の絶望した私の心を明るく照らす。それは気晴らしなんかじゃない。むしろ現実の感覚だ。自分の存在が、決してそこに「在る」だけではないことを証明する、もうひとつの現実なのだ。

 自分の考えたことが、ただ消えていくだけではなく、ちゃんとそこに形を持って残っていくということが、私は、嬉しくて嬉しくて仕方がないのだ。たとえそれが最終的に消えるとしても、それでも、それまでの間に誰かが読んで、その人の気持ちが明るくなって、その人がその人自身の人生を歩むのならば、それ以上の喜びはないだろう!
 人の数だけ、最高の幸福があり、それは決して他者を巻き込むことではなく、ただその人自身の生き方や能力、運命に気づき、それに沿って生きる、ということなのだ。
 私には書くことしかできない。自分の心を映し出すことしかできない。その現実が、私を何よりも元気づける。
 自分が生きていてもいい存在、いや、自分が、生きていなくてはならない存在であるということが、はっきりと感じ取れる。それは理屈や説明ではなくて、もっと純粋で確かな、手元に残る感覚として、私は自分が生きていることを、生きていくということを、はっきりと認め、受け入れ、肯定し、愛することができる。

 この一週間、色々な悩みや苦しいこともあったけれど、結局重要なのは、何よりも重要なのは、私自身がそれを肯定しているという事実なのだ。そしてそれを、それだけを、私が書いた、という事実なのだ。
 疑いも迷いも悪い思い付きも、全部消え去った。残ったのは、はっきりと、形のある希望!
 
 生きているということは、なんてすばらしいのだろう!

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