シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』を読んで。シェイクスピアは優れていると思うが、好きにはなれない。

 久々にシェイクスピアを読んだ。やっぱりシェイクスピアは天才だと思った。

 リア王やハムレットは好みじゃなかった。何が面白いのか分からなかったし、読んでいて気分が悪くなった。
 でも『ジュリアス・シーザー』はそうじゃない。これはとても面白い上に、シェイクスピアらしさがよく出ている名作だ。

 高貴と卑賎のコントラスト。シェイクスピアは、どちらかというと、気高い人間を描くことよりも、卑劣な人間を描くのを得意とした。この作品の優れている点は、あちこちから出てくる人間の醜さや卑劣さ、見せかけの気高さの中から、シーザーとブルータスの真なる徳が光り輝いているところにある。

 シーザーは死ぬとき、こう叫んだ。

お前もか、ブルータス。なら、死ね、シーザー。

 己を殺した人間を恨むことなく、むしろ自らが認める友がそれを望むなら、すぐさまそれを受け入れるひとりの男がそこにいる。

 

ブルータスの敵となったアントニーは物語の終盤で語る。

ただブルータス一人だけは、いささかの私情も交えず、ひたすら公の大義のために、彼らの徒党に加わったのだ。その生涯はあくまで高雅に、その人格は調和に満ちて欠けることなく、大自然も、立って全世界に告げるであろう。「これこそは、人間だった」と。

 

 『ジュリアス・シーザー』からは、あまりローマの空気感がない。どちらかというと、イギリス風の下品さや饒舌さ、頭の悪さが多分に含まれている。いくつか、ローマ史に対する誤りも見られる。(たとえば、この物語に出てくる『カトー』が『大カトーの一子』と呼ばれるシーンがあるが、そんなわけはない。(でも検索してもそれに関する情報がなかったから、私は何か勘違いしているかもしれない。でも大カトーって……ポエニ戦争の時代の英雄で、明らかに時代が違うんだけど。小カトーと勘違いしてるんじゃないかと思う。ともあれ、他にもローマ的じゃないものをローマ的だと言っている部分があったりして『イギリス的な解釈』は目立つ)

 ともあれ、この作品はシェイクスピアの素晴らしい点がよく分かる名作である。言葉は強く、大げさで、演劇映えは、現代においても他の作品に劣らない。(日本語に翻訳されていてなお、その言葉の持つ力には驚嘆を禁じ得ない)


 ここからは私がシェイクスピアに対して抱く感情の話。

 シェイクスピアの作品の中で目立つもののほとんどは、立派な人物が没落し、卑劣な者が笑い、道化や賢者、忠告者が運命を嘆き悲しむという構図ばかりだ。その構図はおそらく……彼自身の目で、何度も実際に見た景色なのではないかと、私には思える。
 
 私はシェイクスピアがあまり好みじゃない。彼が天才であることは疑いようもないし、どのような経験をすればこんなすさまじいものを書ききれるのか、想像するだけで身震いする。

 私はシェイクスピアを、恐ろしいと思う。シェイクスピアを読んだあと、私はひとりの目立たない容姿の男性が、頭を抱えて涙を流しながらじっと壁を睨んでいる姿が浮かんでくる。口の端をにぃっと持ち上げて、笑う。その心の中にあるのは、どうしようもない絶望とその救い。つまり、その感情を美しく彩ること。己の全てを用いて、自分の感じたものを形にすること。

 おぞましい、と思う。結局、彼は人間と世の中の悲惨さを、劇作という形に変えて、笑いながら万人に贈ったというわけだ。
 私はこれが趣味じゃない。気分が悪くなる。作品は素晴らしい。数々の技巧も、特別と言っていいほど優れている。夢中になって、私は一気に読み終えてしまう。そして、気分が悪くなる。しばらくは、それを飲み込むのに苦労する。

 シェイクスピアの本質は、私には二つあるように思う。
「高貴なものが破滅するときの美しさ」と「人間の卑劣さに対する復讐、告発。あるいは、受容」
 いずれにしろ、気分が悪い。私はシェイクスピアは残っていくべきだと思うが、万人に勧められるものではないと思うし、シェイクスピアを好きだと言ってしまうことは、その人間の品性と趣味の高低を示してしまうような気がしてならない。
 シェイクスピアは確かに優れているが、私はこれを好きだとは言えない。


 なんか、こうやって貼ると買わせようとしてるみたいでヤダな。私、図書館で借りてきて読んだわけだし、買って自分の家に置いておきたい作品でもないし。
 光文社のやつって書いてるだけでもよかったかな。でも貼り付けたほうが楽なんだよね……勘違いもないし。(無駄話失礼しました)

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