適応と固い人格


 環境に合わせて生き方や性格を変える人と、そうでない人がいる。おそらくは、子供のうちはみな周囲の影響を受けやすく、生き方や性格を変えていくものだが、大人になってくると、そうでない人間も生じてくる。

 たとえそれが己の不利になると分かっていたとしても、性格や生き方、態度を変えない人間というのがいる。はじめからそういう性格であった、というより、成長の結果必然的にそうなった、と思われるような人間がいる。

 ただ、大多数の人間はそういう「固い人格」「固い生き方」というものを持っていない。周囲の環境に合わせて、信じるものも、優先すべきものも変えていく。
 どのような状況、環境にあっても変わらぬ「己」を持っている人間は、極めて少数であるし、そういう人間は実際に環境が変わるとうまく生き残ることができなくなってしまう。
 大多数の、状況に応じて生き方を変えていく人間の方が、生き残る能力という点では長けている。幸福になる、という能力においても同じことが言える。守るべきものをその都度変えていける、というのは生きるうえでもっとも有利となることであり、同時に、その長所は「凡庸」と呼ばれ蔑まれることも多い。

 多くの「固い人格」とされている人々の多くは、実際に固い人格を持っているのではなく、それが必要とされたから、適応能力の結果、それを育て、確立させた、と考える方が自然に思える。
 あくまで少数の「固く優れた人々」というのは、最初からそのようなものとして生まれたのではなく、周囲の「柔らかく凡庸な人々」が、そのような存在を求めたから、その声に答えようという集団的利己心の結果として生まれたきた存在かのように私には思われる。

 実のところ「個人の意思」なるものはまったく存在せず、そこにあるのは個体としての生物的本能と、人間という名の種としての趣味や権力への欲望ばかりなのではないか、と最近考えている。

 私がこのように考えていることすら、私自身がそう望んで考えているのではなく、この時代の過度な情報量と、認識の混乱、及び行き場を失った信仰心の結果として、私がこのように「考えさせられている」のではないかと疑っている。

 私という存在がこの時代可能であるならば、当然、私のような人間は無数に存在する。このように考え、答えを出し、語る人間というのが無数にいなくてはならない。
 その中でもっとも傑出した人物が、私たちのようなある種の「必要とされた人間」の代表として、全体に影響を及ぼしていく。
 あるいは、私という存在自体が、そういう人間を作り出すための準備、教育するための材料、なのかもしれない。

 私はかつて「全ての人間は個人であり、現時点では七十億を超える個人がこの地球上に存在する」と考えていた。だが人間を観察し、実際に個人と思われる人間たちと関わってみたところ、彼らは「個人」であるというより「集団の中に現れる人間」であり、その人間が個人的個人であるときが、その人間自身の全人生においてかなり例外的な短い割合の時間しか占めていないことに気が付いた。それが「大多数の人間」であるということに気づき、ものをひとりで考えられる人間、周囲に対して影響を及ぼさない可能性のあることをできる人間、自らのうちに特別な世界を持っている人間、というものが極めて少ないことに気が付くと同時に、そういう人間は、ある種の「異常な人間」であることにも気が付いた。

 「個人」という状態は、ある種の異常であり、集団がそれを望んだ時、あるいは偶然がそうさせた場合においてのみ、成立するのだということに気が付いた。実際人は、仲のいい友達といたり、自分より秀でた人間の話に耳を傾けている時、個人でいることが本当に難しい。自分の立場からの意見ではなく、その場における正しい意見、というものを信じようとしてしまう。いや、むしろ一個の知的動物としては、そのような状態の方が、正常といえるのである。周囲と同じことを信じ、同じ方向に向かっていくことが、人間という群れて生きる生物の、正常な状態なのである。

 しかし人間は色々な環境で生きていく必要があると同時に、途方もなく豊かな生物でもあり、自分たちの生存権を広げる上で、ひとりきりで作業をやったり、あるいは、自らの信念に従って、自らの肉体にとっては有利とならないことを、集団のためにしなくてはならない人間が必要になった。危険に向かって自ら望んで動く人間が、集団にとって有益となるようになった。そして、人間の集団は、自分たちの一部をそのように変化させられるようになった。

 正常な人間は全て、幸福と安全を求める。ゆえに群れるし、自らの考えを持たない。だが、全ての人間がそのように考え、行動した場合、世界は平和になるどころか、無茶苦茶になる。なぜなら、彼らは皆、自分たちの幸福や安全のためならば、他者の幸福や安全は、多少侵害してもいい、と本能的に判断しているからである。個人なき世界とは、動物の世界がそうであるように、万人の万人に対する戦いに満ちた世界である。当然、そのような世界は大多数であり最大権力を持つ「力ある弱者」「正常な人間」の望む世界ではない。ゆえに、彼らは常に、自らの行動を律してくれるその個体自身の生存については非合理的な「異常者」を必要としている。だから、自分たちの中から、もっとも傑出した能力を持つ人間を、そのように育つように誘導し、実際にそうさせる。

 私たちの複雑な社会においては、そのような「異常者」があまりにも多く必要とされているために、下手すると過半数以上が「異常者」となっているのかもしれない。個人があまりにも多い社会、と現代社会のことを言うこともできるかもしれない。

 同時にあくまで、全ての個人は、集団から隔絶された存在ではなく、あくまで集団の必要に応じて生じてくる存在であると同時に、集団によって生かされている存在でもあるので、集団が不必要だと判断した場合、その個人が能力的に他のことができる場合は、集団内に溶け込み、個人であることをやめるが、そうでない場合、つまり今更他のことができるようにはならない場合、惨めに死んでいくのである。そしてそれは、元となった集団に一切のダメージを与えないため、誰も問題にしない。個人の不幸は、美しい(人を楽しませる)ことはあれど、集団の不幸にはならないのだ。 

 ゆえに個人は時に適応する必要を持たないので、固くなることがある。固い人格、というものが実現する。
 群れを率いる人間は、固い人格を持っていることが好まれる。考え方がぶれないことが求められる。

 私たち個人はどれだけ己自身の利益のために動こうとしても、結果として集団の利益となるようなことしかできない。私たち自身が私たち自身のために何かをやるとき、自らの単純な生物的本能を満たす以上のことはできないようにできている。
 私たちが社会に反発し、害を為す時でさえ、私たちはその社会を「悪しきもの」「壊すべきもの」「私たち人間の集団にあだなすもの」と見做しているので、決して自分の属する共同体を害するために行っているわけではない。

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