悲惨な平和について

 武力での戦争はくだらないが、しかし人間は愚かな生き物であるから、そういう方向に進んで行きがちではある。

 この国の人たちは一度敗戦国になった経験があるから「戦争はダメだ」と皆が言っている。だが我々の同盟国であるアメリカは、冷戦下のおいしくない戦争を経験するまでは、戦争が大好きだったし、私たち日本はそういうアメリカの気質のおかげで、豊かになることができた。

 戦争を悲惨だと考えるのは、実のところ、私たちにとっての平和が悲惨ではないからなのだ。ある国、ある階級の人々にとっては、戦争も平和も変わらないくらいに悲惨である。実際、戦時中は技術力や軍事力によって人々が殺されたり利用されたりするが、平時は経済力や知性によって人々が搾取され続ける。
 どちらがマシかという議論は、もはや国家同士のものでしかなく、個人同士の間では成立しないものだ。平時と言われている中でのもっとも悲惨な状態を経験したことのある人間なら、まず間違いなく、戦争における悲惨さとの違いは、その規模の大きさでしかないことを理解するしかないであろうから。

 必然的に「武力戦争=悪」と考えるのは、その平和が居心地のよい側、つまり経済と知性という点での争いにおいて勝者の側に立った考え方なのだ。

 もしあなたが、ただ生きるためだけに毎日ほとんど寝る間もなく働かされ、それでもまったく貯金はたまらず、しかも体を壊して誰からも助けてもらえずあっさり死んでいった友人や家族も数知れないような生活をしていたとする。それなのに近くにはほとんど働かずに毎日豪遊している人間がいたとして、そういう状況において、戦争という手段によってその状況がひっくり返せるなら、そうしたいと思うのはしごく当然の成り行きだ。平時において、軍事力以外の点で劣っている国は、どうにかして軍事力を背景に、平時での影響力や豊かさを伸ばしたいと考えるのは当然のことだ。
 既得権益というものは、生半可な手段ではひっくり返せないから、武力を用いて、多くの犠牲を払って、それによって現状の気分の悪い平和を覆そうとする。
 それは人類が繰り返してきた戦争の正体であり、戦争を憎むのは、戦争をせずとも豊かな国の側のわがままなのである。戦争とはわがままとわがままのぶつかり合いなのであって、そこに人道主義を持ち込むのであれば、豊かな側が敵対する側に対してある程度の配慮をしなくてはならない。平時において、敵対する国に対して慈愛の精神で接しなくてはならない。そうしなかった時点で、戦争が起こるのは当然なのだ。
 こちらの理屈が通るならば、向こうの理屈だって通るに決まっている。多数決が強いのは、それが暴力を背景に持っているからであり、たとえ少数でも暴力を行使できる環境が整ったならば、その暴力を用いて自らの利益を得ようとするのは当然のことなのだ。

 平時では、個人個人の局所的な悲惨は見逃される。
「私たちは平和を謳歌してて幸せ。あなた方に何があったのか知らないが、しかしあなた方は私たちの幸せのために我慢しなくてはならない」
 これが平和の理屈なのだ。当然、貧乏な側や、蔑まれる側が、それに納得するわけがない。暴力という手段を持っているならば、それを行使したくなるのは当然だ。
 何度も言うが、大して頭も使わず、薄っぺらな人道主義の観点から「戦争=悪いもの」と考えるのは、戦争を起こす側からすれば、何の抑止力にもならないし、むしろ戦争を起こす原動力にも変わってしまう。戦争以外に、自分たちの悲惨さを覆す方法がないから、戦争を起こす、という場合は、決して少なくないし、むしろ歴史上大きな戦争はたいていそのように引き起こされてきた。

 戦争が悲惨なことくらいは、誰もが理解しているし、引き起こす側だって知っている。だが、それが必要な犠牲だと考えてしまうほどに、平時における人々の状況が相当に悪いものであったということを、この国の人間は全然想像しようとしない。
 第二次世界大戦時のことばかり人は語るが、それ以前に引き起こされたもろもろの事件の重さについて何も見ていないし分析もしていない。頭が悪いのだ。歴史を見る気がないのだ。

 こんなことを言うと人道主義者の機嫌を損ねるかもしれないが、大戦争によって人口の半分以上が悲惨な死を遂げたとしても、人類は生き残るし、立ち直るし、その何十億という犠牲を、適当な祭典や記念日にして、二三百年くらいの間だけ「直近で一番悲惨だったこと。一番愚かだったこと」として扱い、そのあとでは当然人々はあるところでは幸せに、あるところでは不幸に、平和な生活を続けていくことだろう。

 そしておそらく、種としての人間は、集団としての人間は、どうあがいても、命というものを重く見てはいないし、重く見ることなどできない。耐えられないからだ。失われゆくもの、特に我々が利用し尽くし、その一部を必然的にダメにしてしまうものを、大切に扱うなんて、できるはずがない……
 だからどれだけ「命は大事」「戦争はダメ」と言ったところで、起きる戦争は起きる。そして戦争が起きてしまえば、今こういう風に叫んでいる連中は「平和のために戦え」とかって分厚い顔で言い始める。戦いの役に立つ人間を持ち上げ、そうでない人間を軽く見るようになる。
 結局それは「既得権益を守るために戦う連中」と「既得権益を壊すために戦う連中」が殴り合っているだけなのだ。以前の平和をよいものだと考えられるのは、それだけ周囲から搾取し、近くにある不幸を無視してきた結果なのだ。人の不幸でうまい飯を食い続けた必然的な結果なのだ。

 私たちにとって「よき平和」が、世界全ての人にとっての「よき平和」だと無邪気に思うのは本当にやめた方がいい。
 私たちは、ここ数十年、世界でもっとも安心で安全な暮らしを送ることができた。テクノロジーの競争で勝利してきたからだ。テクノロジーの勝利の影響をあらゆる範囲に拡大させることができたからだ。その結果として、負けた側がどんな気持ちで生きているのか想像せず、自分たちの平和が世界から与えられてしごく当然の権利かのように思うのは視野狭窄であるし、単なるわがままでもある。
 戦争を起こすのがわがままであるならば、自分たちにとって都合のいい平和に固執するのもまたわがままである。

 戦争を止めることばかり考え、止まってしまえばあとはただ無邪気に他者や他国から搾取することばかり考えているようじゃ、人間はろくな存在にならないし「いっそのこと滅びてしまえばいい」と考える人間だって、増えてしまう。戦争が悪だからといって、平和が善であるわけではないのだ。むしろどちらも、現状が不幸で悲惨で、死と隣り合わせな人間にとっては、悪なのだ。むしろ、戦争を知らない、平和の中でずっと苦汁をなめてきた人間にとって、その気分の悪い平和こそが、絶対悪のように思われることだろう。当然その気分の悪い平和を、自分たちを不幸にする平和を、褒め称え、維持しようとする人間も、絶対的な悪のように思わざるを得ないことだろう。

 あぁ。戦争自体は悪いものではないが、そういう平時における想像力や配慮の欠如、人間性の貧しさの結果として生まれてくる戦争に、美しさも救いも一切ない。戦争は必ず悪しき平和によって引き起こされる。そして平和は、悪しき戦争によってもたらされる。どちらにせよ、そういう国家という規模で見た時の人間の営みは、不愉快極まりないものであり、あまり考えたくないことでもある。
 小さな一個人が変えられるものでもない。その原因は単純でも、その動力は複雑すぎるから、動きを止めたり変えたりするのは、あまりにも難しいことなのだ。


 誰も悪いやつの言うことなんて聞きたがらない。平和のすばらしさを説いたって、私たち自身が平和の悲惨さを知らずに、自分たちにとって都合のいい意見を主張し続けるならば、平和の悲惨さの中で生きている人間たちは、私たちを悪だと見なすしかないことだろう。当然私たちも、平和の中で苦しんでいる人間たちの声からは耳を塞ぐ。戦争を望む人間の言葉は全部「悪」だから、それを聞かないようにする。

 もうその時点で、私たちは互いにある種の暴力を行使しているのだ。自分たちの立場が相手の立場よりも強いから、その意見をなかったことにしてしまうような、言論上、経済上の暴力を、さも当たり前のようにいつも行使しているのが、我々のこの腐った平和なのだ。

「じゃあどうすればいいのか」
 なんて意地悪なことを聞かないでくれ。さっきから言っているが、一個人がどうこうしようとして変わる問題ではない。どれだけ多くの人間が、それに自分で気づくことができるか、という問題なのだ。
 相手の誤りやわがままを、単純化して捉えず、悪と捉えず、向こうの側に立って物事を見て、少しでも互いにとってよいと思えるような提案を示し、忍耐強く交渉し続けることだけが、戦争を回避し、何よりも、この腐った平和を少しでもマシなものにする最善の手段だと、私の単純な頭には思える。しかし、そんなことがうまく行くような簡単な状況なら、もうすでにそうなっているはずなのだ。

 それに、私は幸せの中で何も知らずに生きている人間に、こういうことを語ろうとは思えない。だが、不幸の中で多くを知って生きている人間が、そういう無知な幸せを恨めしく思って、自分たちがそれを手に入れるために、彼らから富や豊かさを奪い取ろうと企てるのは、決して否定できない人間性であることも、本当のことなのだ。

 私は観察し、語るだけだ。

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