否定するしかないこと

 実際の誰かの人生をフィクションにしてしまうことには、いつも抵抗があった。私自身の経験や、見てきたものをもとに小説を書くことは抵抗がなかったが、実際に存在した誰かの日記をもとに、その人の人生を一から別の物語にするのは、思いつくことすらないほどに、私自身の中で「やってはいけないこと」のひとつだった。

 私は何度も「あの人のことは別にそんな大切に思っていなかった」と言った。実際そう思っていた。今だってそう思ってる。あの人が死んだときに思ったのは「これはいいきっかけだ」ということでしかなかった。私自身が、私自身のことで精一杯であり、あの人のことを思う気持ちなんてこれっぽっちもなかったことを、私の誠実さは指摘する。嘘を信じることも、嘘を信じさせることも、私は嫌いだ。たとえ言わなければ誰も知らないことだとしても、時間とともに美化されるしかないものだとしても、私は、私の記憶や感覚に対して、率直でありたい。忠実でありたい。もし私が善人でないのならば、善人でないのだとはっきりと語っていたい。もし私が悪人であるのならば、私は悪人であるのだとはっきりと語っていたい。
 それはきっと、私自身のためだ。私自身の人生が、嘘にまみれた不愉快なものになってしまわないように、嘘つきの私は、せめて、そういう自分自身に対する正直さや誠実さだけは、失いたくないのだ。


 私がこれから書いていく物語は、その死んだ親戚の兄、私のはとこにあたる人物で、父のいとこの養子となっていた男性だ。彼の母親は長い間子供ができておらず、色々な事情の結果、彼を養子に取ったらしい。詳しい話は知らないし、聞きたくもない。というか彼自身も、そのことについてはほとんど語っていない。彼は手記の中で、自分の両親のことを心から尊敬していると何度も語っていた。実際に彼の両親には何度も会ったことがあるが、彼自身が書いていた通りの人であると私は思っている。
 真面目で、善良で、子供思いで、単純で、臆病で、何も考えていない。そういう、ありふれた「立派な大人」であったという。彼は両親を愛していた。愛していたからこそ、苦しんでいた。そう語りたいのに、なぜか私の言葉はつっかえてしまう。本当に彼が、両親を愛していたと、私ははっきりと断言することができない。彼が何度もそう書き、自分に言い聞かせるように言っていたことがむしろ「愛したいのに愛せない」と言っているようにも聞こえ……いやそれどころか「愛さなくてはならないのに、愛したくない」と言っているようにすら聞こえてしまう。

 故人の内面についてとやかく言うのは、あまり礼儀に適ったことではない。しかもそれを無責任にもフィクションにして、自分や誰かの楽しみにしてしまうなんて、もっとよくないことだ。でも、あの人の生きた証拠や、心の在り方は、どんどん生きている人の心からは消えてしまう。日記だけはそのままの形で残っているが、彼の両親は、彼の精神性に全然配慮をしなかった。遺品の整理を手伝ったときに、これらは全部捨てられるはずのものだった。
 自分でも、これは私のものだと、あの時ははっきりと理解していた。彼のことは愛していなかった。でも、彼と私は確かに繋がっていた。たくさんのことを語り合ったし、お互いの似ている部分も、似ていない部分も、認めあっていた。分からないことも多かったけれど、互いに他の人には言えないことを言ってみたことも多かった。
 捨てられてしまう、ということが嫌だったし……そもそも当時の私はきっと、特別な何かを欲していた。だから、彼の遺品、つまり自殺者の遺書を含めた日々の記憶を私が手に入れるのは、私にとって……僥倖であった。私は役割を欲していたし、それが自分の役割になるような予感もあった。
 いやでもそれは嘘じゃないか? だって、私は当時、そんなことを考える余裕なんてなかった。自らの人生を投げ出すことばかり考えていたはずだし、実際彼の遺品を受け取ったはいいが、それらをろくに見る間もなく、私は私自身の苦しみから逃げ出すために、自殺未遂を決行した。あれはあくまで、未遂に終わることも視野に入れたものだった。死ねたらそれが一番いいし、死ねなくても、自分という人間が大きく変化するから、少なくともその時点での生活からは逃げ出せる。そう考えていた。はずだ。

 中学三年生になってからは、勉強に集中していたせいで日記は書かなくなっていた。だから当時私が何を考えていたか示す証拠は何もない。全部が推測になってしまう。絶え間なく何かを考えていたことは本当だと思う。でも正確なことは何も分からない。そう遠くない記憶なのに、どこまでが「本当に当時の私が考えていたこと」で、どこまでが「今の私が想像で補完したこと」なのかが、分からないのだ。


 あぁ、私自身のことばかり語ってしまった。言い訳ばかりになってしまうのは、きっと私の心にまだ後ろめたさがあるからだろう。私は私自身のために、彼の人生と、彼が残したものを利用し尽くそうとしている。
 歪めてしまおうとしている。実際私は、彼の人生を語るうえで、彼自身がどう思っていたかに問わず、私自身が重要だと思った部分を誇張し、私自身いらないと思ったり、醜いと思った箇所はないものとして扱うつもりだ。そうでないと、フィクションとして成立しないから。そうしないのならば、彼の手記をそのままの形でアップしてしまう方がいい。でも、分かってる。死んだ人の、ただ苦しんだだけの文章なんて、人生の筋道なんて、誰も興味を持たないし、知ろうともしないんだって。
 自殺者というのはあまりに多すぎて、しかもそれぞれが深く悩み過ぎている。何もかもが今更なのだ。

 だからそれを、形あるものとして、価値あるものとして引き継ぐには、できるだけ純粋な形にしたうえで、社会に対する提議のような体裁をとらなくてはならない。
 あぁ、ひとつ、私自身が後ろめたくない本当のことがあると、私と彼の、社会に対する憎しみや怒りという点においては、完全に一致していると、私自身が信じている点だ。それは私と彼がもっとも多く語り合ったことであると同時に、互いにどうしようもないと諦め、仕方ないと嘆いたことであった。
 当時の私たちにとってそれは「社会の」というより「人間の」であった。つまり、これまでの歴史上、及びあらゆる地域における全ての「社会と呼びうるすべてのもの」の内部において、変わりようのない部分について、私たちは憎んでいた。嫌っていた。だからそれはもはや「人間が人間であるところに必ず生じてきてしまうものだ」と私たちは考えざるを得なかった。
 だが、人間は進歩する。進歩しなくてはならない。あるいは人間がダメなら、別の知的生物が生まれればいい。いずれにせよ、それが改善される可能性が少しでも残されてしまうならば、そのために私たちは、もっと考えなくてはならなかった。諦めてはいけなかった。自分には想像できないようなことが、いつか現実になるかもしれないという、そういう馬鹿げた妄想に、縋らなくてはいけなかった。彼も私も現実的で、近視眼的過ぎた。目の前と自分自身のことばかりに囚われ、私たちの周囲の人々への愛に関することばかりに囚われ、私たちは、世界と未来の広さに気づけなかった。
 確かにこれまでの人類は、私たちにとって不愉快極まりない存在だった。この時代でもそうだ。彼らはいつも私たちを不快にさせる。そして私たちが生きている間はきっと、それも変わらないことだろう。だから私たちは、いつも絶望するしかなかった。だから私たちは、私たちが死んだ後の世界のことを、もっとちゃんと考えるべきだったのだ。私たちは希望を捨てるべきでなかった。私たちは、もっと高いところを想像すべきだった。私たち自身の肉体や精神を置き去りにして、もっと素晴らしいものや美しいものの存在が、いつか現実になることを夢に見て、その実現のために、ちっぽけな自分の力を最大限に生かすしかなかった。
 私たちは多分……それができた。それが無意味に終わったとしても、少なくとも私たち自身が、その無意味な障害に納得できるくらいには、それを全うすることができたはずなんだ。

 正直に言ってしまえば、私はやっと、こういう風に言えることができるようになったのだ。
「彼は間違っていた」
 悲しいほどに。涙なしには語れないほどに、彼は正しかった。正しすぎた。正しいことは、ダメなことなんかじゃなかった。でも、肝心なところで、彼は世の中に、私たちの憎むやつらに、引きずられていた。だから死んでしまった。私自身も、彼と同じ道をたどりかけたけど、ほんの少し、違う部分があった。私はいつも未来を見ていた。生き残る方に、賭けていた。私は自殺未遂を行う際、それが未遂に終わる可能性が高いと、おそらく信じていた。おそらく、そうであるべきだと、飛び降りる瞬間に、願っていた。
 彼は首吊りだった。確実に死のうとした。それが私と彼との決定的な違いであり、私たちが相容れない部分であり、私が彼の死を、冒涜する理由でもある。私が彼の死を、生きている私が死んだ彼のことを、利用し尽くし、馬鹿にし、嘲笑い、もっと美しいものとして飾ろうとする理由なのだ。


 この複雑な感情はきっと、他の人には分からないことだろうと思うし、分からなくていいことだと思う。ただここで語ったのは、語らなくては、きっと書き出すことができないであろうからなのだ。
 私は勢いで書くつもりだ。他に方法を知らない。

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 両親は愛情深い人だった。俺はいつも大切にされてきた。愛されてきた。俺は、いつも両親が大好きだったし、その愛情を疑ったこともなかった。
 自分が養子であることを最初に知らされたのがいつのことだったかは覚えていない。でも、それは隠されていなかったし、素直に受け入れていた。母さんは子供が産めない体だったけど、どうしても子供が欲しかった。お父さんは、そんなお母さんの意思を尊重した。お見合いで結婚したふたりは、互いに恋をしているというよりも、ただ相性のいいパートナーとして、ほとんど喧嘩もせず、ほどほどの距離を保って生活をしていた。俺は両親の間に立って、両方ともから、大切にされて育った。
 欲しいと言ったもののほとんどは買ってもらえた。もちろん、ダメだと言われることもあったけれど、それは何というか、今思えば全て教育上のものであったと思う。父の収入が多い方であることは子供ながらに理解していたし、時々高い料理を食べさせてもらえたり、海外旅行に連れて行ってもらえることも多かったし、うちには車が意味もなく三台もあることから、そういうことは理解していた。欲しいものが買ってもらえないことがあるのは、わがまますぎる子供に育たないためだ、ということだというのは、かなり早い段階で分かっていたから、そのうち本当に欲しいもの以外ねだらなくなった。

 友達と遊ぶのが好きだった。どんな人とも仲良くなれる人間だった。大人にも、物おじせず話しかけられる人間だった。色々な、自分の知っていることを人に教えるのが好きな人間だった。たくさんの図鑑を持っていたし、ひとりきりのときは、そういうのを眺めたり、計算をしたり、そういう風にして過ごすのが好きだった。頭を使うのが好きだったのだろう。

 喧嘩をするのも好きだった。ぶつかり合って、仲直りするのが好きだった。子供だけで問題を起こして、子供だけでそれを解決するのが好きだった。だから、別の友達同士が喧嘩をしたときに、仲裁するのが好きだった。殴り合いたいなら、殴り合わせて、まずいと思ったらそれを止めて、ふたりとも落ち着いた後に、話し合いをさせるのが好きだった。実際、そのようにすれば、たいていの仲違いは長引かず、ひどい嫌がらせやいじめのようなことが起こることはなかった。嫌いなら、何が嫌いなのかはっきり言わせてしまうのがいい。改善できるなら、関係はよりよいものとなり、改善できないなら、距離を置けばいい。
 俺は、他の子たちより少し大人だったのだと思う。色々なものごとを理解している子供だったのだと思う。だからか、気づけば周りにはたくさんの仲間たちがいたし、皆が俺のことを尊重してくれていた。それでいい気になっている部分もあったけれど、同時に、そこで調子に乗ってしまうのは、よくないことであると、本能的に分かっていた。立派な自分を演じていたかった。人の期待を裏切らない自分でいたかった。
 そういう子供を歪と言う人もいると思う。自分でも、少し歪だったと思う。


 小学六年生の時のクラスは、問題児の多い特殊なクラスだった。どのような過程でそうなったのかははっきりさせられないが、俺の予想では、五年の時にニクラス学級崩壊を起こしてしまったので、ベテランの男の先生が、それを何とかしようと自分のクラスに問題を起こしそうな人間と、それを何とか留められるような優秀で活動的な人間を集めたのだと思う。実際、不思議なくらいにその年では、別のクラスでは問題が起きなかった……と言いたいところだが、ひとつのクラスで障害者学級から移ってきた子がイジメられたことが、かなり長い間問題になってたことは言い添えて置かなくてはならない。
 ともかく、この一年で起こった問題のほとんどは、うちのクラスで起こったことばかりだった。

 何から話せばいいか……俺自身のことから話そうか。小学校に入りたてのころから色々と因縁のある、体の大きいガキ大将みたいなやつがいて、そいつは頭も回るやつで、女からもよくモテていたが、どうしようもなく下品であるのと、教師から嫌われるしかないような喋り方と態度であったので、色々と問題を起こすことが多かった。
 そいつは俺に対してある種の複雑な感情を抱いていて……当時の俺は、ただ俺のことが嫌いだったのだと思っていたが、今思えば、そいつは俺のことが好きだったのだと思う。ことあるごとに「俺のこと好き?」と尋ねてきたし、俺がそっけない返事をすると、上からのしかかってきたり、首を絞めてきたり、いきなり軽く殴ってきたりした。俺自身は別に、わざわざ相手にしても仕方ないから、我慢して耐えていたし、それくらいのことで他のやつらから軽くみられるほど、存在感のない人間でもなかったから、プライドも大して傷つかなかった。実際、そいつが俺に対して何かやる過ぎるようなことがあると、すぐに止めに入ってくれる奴がいたし、女子もみんな俺の側についてくれた。
 その学年の男性教師は、そのガキ大将をクラスの中心人物に据えることによって、クラスの秩序を保とうと考えた。何をやるにしても、彼を特別扱いし、それによって彼が問題を起こさないようにすると同時に、他の問題児たちを彼が統率するように仕向けたのだ。
 そして、その思惑はだいたい成功したが、その分、そいつの悪い趣味や、くだらない嫌がらせに皆が追従する必要に迫られた。その結果としてか、あるいは別件のせいかは分からないが、ひとりの女子が不登校になるようにもなった。そのガキ大将はそのことをひどく気にして……いつまでもガキ大将と呼んでは悪いので、仮に山岡と呼ぼう。山岡は、どうにかしてその女子を学校に来させたいようだった。

 色々な手段を講じた詩、そのベテランの男教師も、それに協力した。俺は、その子の気持ちを無視したそのやり方に腹が立ったし、はっきりと反対だと言ったが、黙殺された。それどころか、それまで味方してくれていた女子たちのうちの何人かが、俺に対して「どうしてそんな『いいこと』に反対するの?」というような態度を取るようになった。
 それがきっかけかどうかは分からないが、俺に対して嫌なうわさが立つようになった。恋愛がらみのそれだ。
 俺はそもそも恋愛というものがずっと気持ち悪いと思っていたし、自分の性欲も、できれば消し去りたいものだと考えていた。女の体の話で盛り上がってる同級生たちは気持ち悪かったし、ただ目立っているだけの男にすぐ群がるような女子たちも気持ち悪かった。
 もしかすると、俺のそういう、他の人が重大なことと考えていることを軽蔑する態度が、俺に対する反感を大きくさせたのかもしれない。

 それとは別に、クラスの中で、ひどいあだ名をつけ合って、それを「親しみの証」とするようなことが、男子の間でも女子の間でも広がり、互いにそういうことをするようになっていた。相手が嫌がることをやっても、お互い様ということで許しあう、みたいなことがひとつの秩序となって成立していた。
 それが当時本当に不快であり、俺自身も不機嫌でいることが多くなった。俺自身にも、不愉快なあだ名がつけられたし、男子も女子も楽しそうにその名で俺を呼ぶ。教師は、それをいい兆候だと見ていた。

 俺はある時腹が立って、そのことを教師に直接言った。彼は真剣に悩んだが「でも、それで誰も傷つかないならいいじゃないか」と言った。「お前みたいなやつは将来安泰かもしれないが、山岡みたいなやつは、今後やっていくうえで、色々な経験をする必要がある。他の子たちもそうだ。周りと合わせる、ということを学ばないといけないんだ」と、懇願するように言ったのだ。教師が、生徒に対して諭すのではなく「どうか許してくれ」というような態度で、俺にそう語ったのだ。
 俺はそれが本当に不愉快だったが、同時に、その教師に、同情もした。

 文化祭のころ、その教師はストレス性の胃潰瘍で入院した。その教師自身も、ひどく言われることが多かったし、意味不明な嫌がらせを生徒たちから、親しみの証として受けることもあった。
 その教師が病気になったことによって、山岡もそれにくっついていた連中も反省したのか、少し大人しくなった。

 そのクラスは、卒業式の時に、ほとんどすべての人間が泣くような「いいクラス」として、皆の記憶に残ったようだった。実際、運動会でも優秀したし、縄跳び大会のような色んな企画において、そのクラスは山岡の指揮のもと、うまく結束して、よい結果を残した。不登校の女の子は、卒業式だけ顔を出し、皆を喜ばせた。
 必ず同窓会をしよう、とみんなが誓い合っていた。

 俺と、俺の数人の友達は、冷めた目でそれを眺めていた。連中は気持ちが悪かった。そういう連中から、少なからず影響を受けてしまう自分自身にも、嫌気がさした。
 いう必要のないことかもしれないが、中学二年生になるタイミングで、山岡は転校した。親の仕事の都合ではなく、彼自身と学校の関係性の問題で、半ば追い出されるような形だった。女性徒との肉体関係がうんぬんという噂も聞いたことがあるが、興味を持たないようにしていたので、詳しい話は知らない。


 そういう学校生活とは別に、スポーツ少年団に入って野球をしていた。そのチームはそれなりに強いチームだったので、色々と理不尽で古い練習方法に苦しめられる部分もあったが、市の大会で二度優勝することができたので、それはいい経験になった。県の大会や地方の大会に進めるような大きな大会にかぎって、準決勝や決勝で負けることが多かったのは悔やまれるが、それも含めていい経験だった。
 たくさんの大人たちに支えられ、応援され、自分たちの目標のために一致団結できた、というのがよかった。同時に、コーチ同士や保護者同士のいざこざも目の前で見せられたので、そのことについては、あまり思い出したくない。自分が巻き込まれたこともあった。


 中学一年、二年と何も特別なことのないような生活が続いた。入った野球部はひどい部活で、素人のコーチと、やる気のない乱暴者の上級生たちのせいで、滅茶苦茶だった。下の学年もひどいもので、まともに練習することもできないし、試合では一試合も勝つことができなかった。
 俺自身、なんで続けているのか分からなかったので、二年の途中でやめた。もう少しで三年生がやめて、自分たちの好きなようにできるようになるタイミングだった。もったいない、と言われることも多かった。両親にもいろいろ言われた。当時俺は、反抗期的な部分もあって、自分の気持ちは大人たちには分からないだろうと考えていた。俺はもしかすると「つらいからやめた」と思われたくなかったのかもしれない。だから、これから楽になって、うまい汁が吸えるようになるタイミングでやめてやることによって、自分という人間の傷ついたプライドを自分自身に対して取り戻そうとしたのかもしれない。
 その後は、交友関係は小さくなったし、よく「変わったな」と言われるようになった。実際、自分でも暗い性格になったと思う。周りを引っ張りたいと思わなくなったし、誰かを好きになるという気持ちがどういう気持ちだったのかも思い出せなくなった。
 小学生時代仲が良かったやつらとも、なんだか互いの昔を知っているからか、気まずい思いをすることが多くなった。あと、小学生時代俺によく懐いていた女の子が、俺にいきなりひどい悪口を言ってきたことがあって、それに意味不明なほど深く傷ついて、恨みに思ったことを言い添えて置く。俺がいったい何をしたというのだろう、と当時の俺は情けなくも一人で部屋にこもって泣いた。いろいろと、精神的にきつい状況だった。

 俺はもう人間を見たくなかったから、コミュニケーションを最低限にして、勉強に集中するようになった。その分、多分嫌われていたのだと思う。いろいろといたずらをされることが多くなったが、気にしなかった。気にしていないと、どんないたずらも、つまらないからか、すぐに収まった。それでも時々行われるのは、本当に暇だからなのだろう。

 県で一番いい高校に入ったはいいが、コミュニケーションの仕方は分からないし、勉強は忙しいしで、部活をやめてから運動する機会が減って体力が落ちたせいか、調子が悪くなることが増えた。
 それまで遅刻なんてしたことなかったのに、昼頃までずっと連絡も入れず寝込んでしまったり、夜ずっとぐるぐる考え事をしてまともに眠ることができなかったり。重要な書類を出しそびれたせいで、色々な人に迷惑をかけてしまったり。
 典型的なうつの症状だということで、親に連れられて思春期外来に行くことになった。学校は休学することになった。俺自身、もう耐えられないと思っていた。

 そこの先生は、医者らしい医者だった。患者は患者であり、自分は彼らを治すのが仕事だ、という人だった。親切で、優しく、そして、とても鈍い人だった。何度診察を受けても、毎回「前よりよくなっていますね」と言われるのは心底不快だった。自分自身にそういう実感がないのに、そういう風に言うことによって、人の認識を誘導して治そうとするその単純なノウハウに、腹が立った。今思えば、それを正直に言えばよかったのに、俺はただ、ずっと騙されたふりをし続けた。

 薬を飲んでも、その薬を飲むという行為自体がストレスになったせいか、余計眠れなくなり、体の調子も悪くなった。薬を増やせば増やすほど俺の様子が悪くなっていっていることにさすがにその人も気づいたのか、薬はだんだん減り、ついにはなくなった。だが、俺の症状はそれほどよくなっておらず、ただ俺自身が、マシになっているふりをしているだけだった。
 実際、病院にいる間ぐらいなら、平気なふりをするくらい容易だった。それを見抜けないような人間が、どうやって俺を治療しようというのだろう? 一通りのことは試したが、無意味だった。そもそも俺の何が病気なのか、誰も教えてくれないし、俺自身も分からなかった。

 ただこの世の全てが不快だったし、たくさんの過去が繰り返し俺の中で生じてきては、それが俺を苦しめた。連中の意味不明な行動も、嘘だらけの言葉も、職業上の仕方のない態度や方法論が、俺自身の頭をぐちゃぐちゃにした。教師たちの教師らしい発言も、医者たちの医者らしい発言も、両親の両親らしい発言も、そこには「決められたものが決められたように置かれている」ように感じられると同時に、そのどれもが「俺」ではなく「優秀だが落ち込んでいる気難しい青少年」に向けられているような気がした。そしてそういう青少年を、最終的には「社会に役立つ人材」にしようという思惑が、あるいは期待が、そこからは透けて見えていた。それが本当に、不快だった。大嫌いだった。気持ちが悪かった。許せなかったし、耐えられなかった。

 反面、自分に与えられた環境も、能力も、全部この社会を構成している彼らが作り出してきた豊かさの結果として得られたものなのだから、人としての当然の恩義として、それを返さなくてはならないと俺も考えていた。
 両親と社会から与えられた分だけ、俺も両親と社会に返さなくてはならないと、俺は考えていた。だからこそ、俺の本音をぶつける相手は、俺と同じ悩みを抱えたあの子以外にはひとりもいなかった。
 でも当然のように、あの子自身も、俺と同じ道を辿るしかなかった。学校に行って、友達と関わり、大人たちの言うとおりにものごとを進めるしかなかったのだ。

 俺には、それすらもできなかった。あの子は、きっと俺よりも頭がいいから、うまくやるだろうと俺は思った。だったら、これ以上俺が悪影響を与えてはいけない。そう思って、ある時からは冷たく接するようにした。すると彼女も俺の気持ちを理解したのか、それ以来挨拶しかしてこなくなった。


 高校三年生にあたる年齢になったとき、予備校に入ることにした。高認はとれるようになった年齢ですぐに取ったから、それが可能だった。学校に通っていないので、浪人生たちと同じように、ほぼ毎日通うことになった。最初の試験でかなりいい点数が出たからか、色々なコースがある中で、一番上のコースを勧められた。俺は正直当時何もかもがめんどくさくて、ただ言われるがままになっていた。予備校に通い出したのだって、親の意向だった。俺は両親が、自分のためを思って色々やってくれているのを知っていたが、同時に、彼が俺のために何かをするたびに、それまでひとりで出来ていた自分自身というものと、そのプライドが壊れていくような感覚を毎回味わっていた。親に金を払ってもらうことですら、気持ちが悪かった。それなのに両親は「あなたのためにはお金なんて惜しまない」なんていう、その得意げな態度を、隠そうともしなかった。俺は恥ずかしかったし、自分が彼らに反感を抱いてしまうことすら、自分自身に対しての嫌悪感にしかならなかった。

 全ては俺自身の問題であると同時に、人間というものの性質の問題でもあった。彼らがそのような態度をとり、そのように発言するのはきわめて自然であり、まっとうなことであった。だからこそ、俺はその「まっとうさ」が大嫌いだったし、気持ちが悪かった。
 予備校の先生たちは、常に浪人生たちにプレッシャーをかけ続けた。彼らはものを教えるのがうまかったが、人間性としてはひどいやつらばかりだった。彼らの生き方は不快だった。大手予備校の講師、というのはある種においてこの社会で最も頭のいい人間であるはずなのに、そこから感じられるのは、人の心を無視した実益主義と、自分の目的とは関係のないものは容赦なく切り捨てる残忍さばかりであった。
 俺は順調に成績を伸ばしていたが、面談の時、俺が自分が家でしている勉強の時間を答えたら「もっと勉強しなきゃいけないよ」と、反射的にそう言って、軽蔑の眼差しを向けてきた。自分でも、他の浪人生より勉強時間が短いことは理解していた。それでも、テストの結果は問題がなかったはずだった。俺は自分なりに努力をしていたし、結果はちゃんと出ていた。それなのにあの人は、俺自身の全ての事情を無視して、そういう言葉を口にした。
 女性だった。綺麗な人だった。優しい人であるのは知っていたし、まともな人であるのも分かっていた。だからこそ、その人が、そんな目をして、そういうに語ることが当たり前になっている現実に、吐き気を感じた。
 そうでありながら「そうですよね。もっと頑張ります」と、笑顔を浮かべている自分のことを、何よりも強く軽蔑した。

 それからしばらくして、予備校をやめた。大学に行く気も失せた。いや、もう、生きてくことが嫌になった。死ぬタイミングを見計らっている。両親には申し訳ないと思っている。

 遺書には、大したことを書くつもりはない。生きていくのが嫌になったという、ただそれだけなのだから。

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 失礼なことかもしれないが、彼の人生は薄っぺらい。私自身のそれと大して変わらないほどに。
 彼の手記に書いてあることのほとんどは、同じことの繰り返しだ。彼は優秀で、繊細で、心優しい人間ではあったが、それだけだった。
 そして、そういう凡庸な彼の中にある、ある種の特別な部分が全て、彼の生にとって仇となった。彼は、かわいそうな人だった。
 あぁ何と言えばいいのだろう。私は彼に対して、何を言えばいいのだろう。
 何も言えない。ただ、私自身が、まだやったことのないことをやってみたかっただけだ。故人を冒涜してみたいと思っただけだ。
 彼を愛していなかった証拠を残しておきたいのかもしれない。あるいは、私自身が傷つかないような、彼への好意が、そこには含まれているかもしれない。なんでもいい。私は彼に対して執着することをとうの昔にやめているし、それでも時々頭の中に浮かんできてしまうのを、うっとおしく思っている。
 だからもう、こういう風に、無価値な文章として片付けてしまいたいのだ。

 私は、こういう人間になることによって、過去の私と、彼という人間の生き方とその影響に、見切りをつけようと思うのだ。

 私と彼は異なる人間であったし、私はもう彼に同情したくない。彼の言い分はまっとうであったが、彼の生き方は間違っていた。
 彼の感じていたことは正しかったが、彼の選んだ道は間違っていた。

 そういう風に考えるのは、彼への同情でもなければ、好意でもない。彼に生きて欲しかったからそう思うのではなく、ただただ、彼に対する軽蔑として、そう思う。
 生きて欲しかったのではない。生きるべきだったのだ。そしてそれができなかったのなら、彼は死ぬべきであった。彼の選択は事実として尊重されるべきだが、しかし、私自身の影響としては、尊重されるべきではない。

 あぁ。まだ難しいな。まだ、否定しきれない気持ちがあるんだ。まだ、彼の死にも、意味があったのではないかと考えてしまいたくなる。
 私はさっさと、彼の死を無意味なものとして受け入れたい。彼の死が、くだらない、間違った、馬鹿げた、そういう選択であったものだと考えられるようになりたい。そうしないと、私自身もまた、ずっと、死というものの誘惑に抗いながら、同時に、身の丈に合わない「意味」だとか「価値」だとか、そういうもののために自分の人生を捧げたい気持ちに囚われ続けてしまう。

 馬鹿げたことなんだ。私たちふたりの人生は確かに、他の人たちとは少し異なるものだった。私たちの感じ方も、生き方も、正しさも何もかも、この時代に根差したものであると同時に、すでに組み立てられた「豊かさ」や「強さ」に対して、反対するしかないものであった。
 私たちはこの時代……というより、人間というものの醜さ自体に苦しんできた。どれだけ世界が豊かになって、システムが人々の幸福に役立つようになったとしても、私たちのような人間は、決して救われないし、むしろ、どんどん苦しくなっていく。

 だから、私たちが何とか生きていくためには、彼らのいない世界か、あるいは、私たちのような人間の多い世界を欲し、求めなくてはならなかった。そのために、あらゆるものを犠牲にするだけの覚悟が必要だった。私たち自身の人生をそっくりそのまま捧げられるような、現実的な理想が必要だった。
 死んだり、あるいは自分の過去を利用して自分自身を誇ったり、彼らに対して復讐心を抱いたり、そんな風にするべきではなかった。

 私たちは、私たち自身を、私たち自身にとって、よりよい、より愉快な存在にすべきだった。それがいつか、世界になるべきだった。
 この世界における大多数にとっての「よい」に、私たちが合わせるべきではなかったし、そこから逃げ出すために、死を選ぶようなことをすべきではなかった。私たちは正しいのであり、正しさゆえに死ぬのではなく、正しさゆえに、願い、祈る存在でなくてはならなかった。
 彼らに対する恩義や愛や諦めや憎しみのために、死んではならなかった。

 もっとたくさん話しておけばよかったと、本当に心の底からそう思う。
 ひとりでは世迷い事でも、ふたりいれば、それは真理になる。私たちは同じものを感じていた。それだけで、私たち自身の感覚を信じ、彼らの感覚を否定するのに十分なはずだったのだ。

 私たちは、この豊かで、私たちの役に立ってきた、この素晴らしい社会を、真正面から否定し、憎み、厭い、滅びを願い、その先で幸せに生きる未来を本気で想像すべきだった。そうして何とかこの生に耐えていくべきだった。

 私たちは彼らとは違う。それは、間違っていなかった。それだけは、間違っていなかった。だからそれを自らに証明するために、死のうとするなんて、馬鹿げたことだった。そんなことをせずとも、私たちは彼らから離れて生きることができるはずだったんだ。恩知らずになることが、できるはずだったんだ。

 生きるために、自分たちの嫌いな人間たちから受けた恩を仇で返すことは、決してやってはいけないことではないし、そんな「人としての道理」なんて、覆してやるべきだったんだ。そうすることでしか生きられないなら、そうすべきだったのだ。
 私たちは、彼らよりもよい存在だから。美しい存在だから。
 だから、決して死んではいけなかった。

 私はもう否定するしかないのだ。

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