観念論的存在者ごっこ

前書き

 これはあくまで遊戯である。知的遊戯である。ここで語ることは全て冗談であり、ひとつも真面目なことは含まれていない。(と言いつつも、私自身、人に真面目だと思わせてしまうような特徴を持った人間なので、その文章からは一種の真面目さが伺えてしまうかもしれない)

 何をするかというと「観念論的存在者ごっこ」である。
 これが何であるか、前書きで簡潔に説明しておかないと、それを見る予定である諸君は楽しむことができないかもしれない。独りよがりな遊びも悪くはないが、せっかく見てもらってるのだから、私の貧相な説明能力を駆使してこれの説明を試みよう。

・観念論とは
 一言で言えば「この世界は精神である」という考え。とはいえ、それ自体が色々な分派があるというか、なかなか難しい問題なので、詳細を語り始めるときりがない。
 なので、ここではこのように捉えていただきたい。
「目で見たものや感じたもの(経験)ではなく、私(睦月)が決定したものをもとに考えていくという方法論」
 これはあくまで、数ある観念論のうちの一形式に過ぎないので、それは誤解なきよう。

・存在者とは
 これは遊びの中で説明する。言ってしまえば、この「観念論的存在者ごっこ」は、観念論的に考えて「存在者とは何か」に答えを出す遊戯である。

 さてこの時点でわけが分からなくなっている方もいらっしゃると思いますが、この先さらにわけがわからなくなっていきます。ごめんなさい。よろしくお願いします。


遊戯を始める前に

 先に流れを決める。結論の部分には「存在者とは」を置きたい。六つの題に分けたい。なぜ六かというと、私が六月生まれだから。
 題を先に決めておこう。逆算して、定義が必要なテーマを導き出していく。
六「存在者とは」
 存在者を明らかにするには「存在」とは何か説明しなくてはならない。ゆえに。
五「存在とは」
 存在を明らかにするにあたって「非存在」を明らかにしなくてはならない。ゆえに。
四「非存在とは」
 非存在を明らかにするにあたって「認識できないもの」を明らかにしなくてはならない。ゆえに。
三「認識できないものとは」
 認識できないものを明らかにするにあたって「認識できるもの」を明らかにしなくてはならない。ゆえに。
二「認識できるものとは」
 認識できるものを明らかにするにあたって「認識する者(主体)」を明らかにしなくてはならない。ゆえに。
一「認識する者(主体)とは」

 お分かりだろうか? 私には分からない(笑)
 ちなみに私はもうすでに楽しい。脳が喜んでいる。

 さて……遊戯を始めよう(低音ヴォイス)


一「認識する者(主体)とは」

 認識する者は認識する者自身を認識することができる。認識する者が認識する者を認識するとき、認識する者は「私は」と語る。
 「私は」で語る者は認識する者であり、認識する者の定義とは「私は」である。
 認識する者は、認識する者によって認識されたとき「認識されるもの」に変化する。それは認識するもの自身を認識することと同時に引き起こされる事態であり、常に認識する者が認識されたとき、それは認識されたものとなる。それが「私は」である。

 そしてその「私は」の先で語られるもの、つまりそれは他の「認識されるもの」であり、常に認識されたものは、それより先に認識されたものに依存している。つまり全ての「認識されるもの」は「私は」にとって「私は」に依存しているのである。

 認識されるものは認識する者の認識によってその姿を変化させる。認識はその認識によって対象を認識するため、認識は「存在を通して存在を認識する」のではなく「認識を通して存在を認識する」のである。


二「認識できるものとは」

 認識する者は認識する対象の認識自体に許可を出すことができない。それは常に受動性を内に含んでおり、認識は認識自体として、認識する者に認識を押し付ける。「認識できるもの」は多くの場合において認識する者に認識することを迫る。認識する者は認識することを拒むことができない。
 認識できるものは常に認識する者に認識された瞬間、認識する者にたいして認識されることを要求していたかのように振舞う。しかしそれは認識できるものそれ自体の性質ではなく、「認識を通した存在を認識した認識できるもの」という変化した認識できるものの性質である。
 認識できるものは全て存在し、それを認識されることによって認識する者に対してその存在の存在性を明らかにする。のみならず、それはそれが認識されることによって、認識できるものであることによって、己の本質、つまり認識できるものであることをも明らかにするのである。

三「認識できないものとは」

 認識できないものとは、認識する者から無限の距離を置かれた存在である。それは存在として認識されているにも関わらず、それ自体が認識できるものとして己を表現しない。つまり、認識されているのに、認識されていないのである。
 その矛盾性自体が、認識できないものの性質であり、その矛盾性ゆえに、神秘、聖潔、象徴的であり、認識する者はそれに名をつけたがるが、名をつけた瞬間にそれは「認識できるもの」に変化し、もとの「認識できないもの」は別の認識できないものの属する存在に逃避し、認識する者にとってそれが己と隔絶されているということを繰り返し認識させられるのである。
 認識できないものは認識できるもの同様認識する者に一方的に認識を迫るが、その性質がゆえに認識する者を困惑させ、忘却させる。認識できるものと認識できないものは認識する者の認識を通して認識されることを、その存在自体の特性として許容しているか否かという決定的な違いを有している。つまり「あらゆる認識できるものは、存在を通して存在を認識されているのではなく、認識を通して存在を認識されているのであるから、認識を通して認識されることのできない存在は認識できない存在」なのである。

四「非存在とは」

 非存在とは、存在の一形式である。存在する者が「それは存在していない」と言っているとき、その対象を認識している。つまり非存在とは全て「認識できるもの」なのである。ゆえに先ほど語った「認識できるものは全て存在する」という命題に従うと、非存在は存在する、というのがどうやら正しいらしい。
 非存在とはつまり、己の非存在性自体を認識されることによって認識する者に表明している存在なのである。
 非存在性は存在に内包されており、認識の内部において非存在性は「認識の内部においての非存在」なのであり、認識を通さない存在そのものとしての存在を肯定しているのである。

五「存在とは」

 存在とは、認識に先立つものである。存在は「認識できるもののうちの存在するもの及び存在しないもの」を含むだけでなく、認識できないものをも内に含んでいる。
 存在とは認識が認識しようとする対象であり、認識そのものの土台である。つまり、認識自体も存在であることを、認識する者は認識しているのである。認識はあらゆるものを認識するとき、その認識を行う際、それ以前の受動的認識として、己の存在自体を存在として認識している。つまり認識は絶えず己を認識し続けているのである。
 認識する者が己を認識することによって「私は」と語る以前に、あらゆることを認識する前に、認識は何よりも素早く「認識する」を認識しているのである。
 「われ思うゆえにわれあり」ではなく「思うゆえに思うあり」そして「思うありゆえにわれあり」と、認識は認識していくのである。存在は認識に先立つゆえに、認識は存在を認識する前に、認識という存在を先だって認識する。

六「存在者とは」

 存在者とは認識そのものではなく、認識によって認識されることによって「認識を通して存在を認識された認識そのもの」なのである。ゆえに存在者は「認識する者」でなくてはならないし、同時に「私は」でなくてはならない。それだけでなく「認識できるもの」でなくてはならないし、同時に「認識を迫り続けるもの」でなくてはならない。
 存在者とは、認識によって変換された認識自身なのである。ゆえに存在者は常に「認識する者」にとって単一であり、唯一である。
 存在者は存在に対して先立っておらず、むしろ存在こそが存在者に先立っており、そして存在を根底で支える存在こそが「認識」であり、同時にそれは、認識されたとたんに「存在者自身」に還元される存在である。


終わりに

 おしまい! すごく楽しかったです。
 多分人によって、これを見てどう感じるかは違うと思います。
 ある人は「でたらめ言ってるだけじゃん」と思うかもしれませんし、またある人は「何を当たり前のことを」「同じことの繰り返しじゃん」と思うかもしれません。また別の方は「○○のやったことのパクリじゃん。しかも劣化パクリじゃん」と思うかもしれません。

 ちなみに私自身はどう思うかっていうと……そうですねぇ、こういう思考形式でも意外と考えられるんだなぁと、感心しています。
 考えられる、というのは面白いことです。一から順番に自分で考える、というのはとても楽しいことです。

 でも多分ほとんどの方は「認識認識うるせぇわ!」と思ったことでしょう。私も今さっき読み返してみてそう思いました(笑)

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