「政治と音楽について」

今年の7月、東京都民は二度も選挙がある。

先日終わった参院選は、望む結果に終わった方も、望まない結果に終わった方も、興味もなく良く判らない方も、それぞれ居るであろう。

さらに私的使い込みの解明もないまま、無様な辞職をした前都知事の代わりを、仕方なく新たに選ぶ選挙期間が始まった。

また膨大な税金がやみくもに使われる。
副知事が任期満了まで代わりを務めればいいではないか。大して違いは無いのだから・・笑。

そんな7月に『政治と音楽』という極めて危ないネタを書くのも、一興かもしれない。
それなりに不穏当な内容なので、読まれる方は寛容さとご覚悟を。

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先月辺り、某著名音楽フェスに某政治的団体の若きリーダーが出演する事態に対し、「音楽に政治を持ち込むな」という意見がネット上で散見された。

この発言が話題となって、両論が分かれ議論となり、ネットで暴言も荒れ狂ってたらしい。

だがこれは「音楽に政治を持ち込むな」という、一見もっともらしい、「非常に政治的」な意図を持った言い回しによって起きた結果である。

また、つい最近、米国の著名なロックバンドのギタリストが以下のような発言をして、物議をかもした。

「音楽というのは100%政治的だ。音楽は現状を支持しているのか、または現状に異議を申し立てているか、のどちらかしかない。だからそういう意味で、すべてのアーティストは政治的だ」

しかしこの意見もあまりに極端だと思うし、恣意的だ。

ただし、歴史的に見ても「音楽」と「政治」は様々な局面で多様に関わって来た。

もっと判りやすく言えば「音楽」は政治的に利用されてきたのだ。

クラシックの時代から連綿と続く王侯貴族達による音楽利用。
特に欧州各国では民衆をコントロールするために、音楽は体制側によって都合よく使われてきた歴史経緯がある。

全ての軍隊には、軍楽隊が存在する。

「戦争」とは「政治的解決」の一手段であり、兵士を鼓舞するため為政者は「音楽」を利用した。

それは現・近代の激動の時代でも、形を変化しながら続いている。

つまり、各局面に於いて「音楽」と「反核兵器」だったり、「音楽」と「人種差別撤廃」だったり、「音楽」と「環境問題改善」だったり、「音楽」と「戦争反対」だったりを結び付けた経緯を持つのだ。

現・近代ではリベラルで革新的な政治思想を持つ側が、反体制と言うお題目や、彼らの主義主張を、例えば「ロックミュージック」に重ね合わせることで、結果として体制側への反論として利用してきた。

逆に、その様な事象が少なからず創作意欲を湧き立て、後世に残る名曲を作り上げてきたことも事実である。

しかしそんな反体制ソングで結果売れてしまった彼らは、現実に身を置き、音楽ビジネスにも巻き込まれる。
みんな生活や収入も考えるし、だれもジョンのように死にたくはない。

実も蓋もない話だ・・。

ミュージシャンを含むエンタティナーがお金を稼げるのは、自分たちの「芸」や「作品」を体験させ視聴してもらって、一般の方々を楽しませることが出来るからだ。

単に「思想」や「哲学」やましてや「政治性」の表現を、延々と続けるわけにもいかない。

彼らはその「技術」や「演技力」に磨きをかけ、「芸術性」を失わないように計算をして商売をする。
こうすれば楽しんで貰えるという事を理解しているからだ。

しかし音楽でまだ食いつないでいけない日本の若きミュージシャン達は「アーティスト」という幻想に身を置き、ピュアさを打ち出し、商売の計算に走らず、ユーザーやマーケットにおもねることなく、ただ自分を表現する事のみに重きを置いてしまう。
売れなかろうが、自分のアーティスト感覚をどこまでも守ろうとする。

音楽をエンタテイメントであろうとする感覚は、あまりに若い彼らにはなかなか持ち得ないのかも知れない。

悲しい事態だ・・。

かたや政治家は、本来的にはエンタティナーではない。

だが、一度でも演説を聞けば判る事だが、彼ら政治家の話術や態度は、エンタメの極意そのものなのだ。

そして、文字通りエンタテイメントを含んだアピールをする「政治家もどき」に人々は心を奪われがちだ。

聞き心地の良い、おためごかしの文句を交え、時々不安を煽り、現体制への反対を繰り返し、自分だったらより良く出来るとアピールする。
場所を変え、スタイルを変え、エンタメを交え、扇動する。

聞いているのは馬鹿ばかりだと思い込んでいるから、自分の名前だけを連呼したりする本物の馬鹿がいたり、芸の真似事を見せて盛り上がりを演出する。

そう、一般大衆は過去も現在も、基本「愚鈍」である。
現在の政治家もどきはその事を理解している。

愚衆が喜ぶのはエンタテイメントである。

政治家を目指す人間がエンタティナーになり、「音楽」すら利用し、若い大衆を熱狂させ、多くの観衆を集め、演説と言う名の、心酔した彼らが聞きたい事を聞かせるエンタテイメントを繰り広げる。

例えば反体制の人間が、現状を否定する政治的な材料は、いつの時代も、いくつでも、どこにでも見つかるものだ。

陰謀論が渦巻き、腐ったマスコミがそれに拍車をかける。

人間は、社会は、そして国家は常に完璧ではないから。

たちが悪いのは、有名である、人気がある、ルックスが良いというだけで周りが持ち上げ、票を集め当選させ、結果として多数決と言う数の論理に、候補者を当てはめさせる連中だ。

これは民主主義の弊害であるが、今のところ民主主義に代わるイデオロギーを人類は持ち得ていない。

だが、真の政治家は人々を楽しませることなどしない。

人々の生活を守るために、身を粉にして働くのが政治家としての本分だと、本来の政治家は考えていた。

国のために、国民のために、たとえ非難される政策だろうと進退をかけてやり通す。

金や地位や名誉などではなく、政治家になる事はボランティアだと思っていたのだ。

日本でも、少なくとも第二次大戦前までの政治家はそうであった。

ところで、政治家をも楽しませるのが本物の「エンタティナー」だ。

米国の大統領官邸ホワイトハウスには、毎年のように一流ミュージシャンが呼ばれ、ライブを行い、大統領を始めとする多くの政治家を楽しませる。

果たしてそこに呼ばれるミュージシャンはみんな保守的で、体制側に迎合する右翼的な考えを持っているのか?

まさかそんなはずはない笑。

彼らはエンタテイメントを生業としているだけで、政治家だろうが何だろうが自分たちの芸や演奏で楽しませる術を知っている。

もちろん良いギャラは貰うだろうし笑。

日本国の官邸も立派な設備を持った大きな建物なのだから、そのようなライブを行えばどうか?

きっとより明確に「音楽」と「政治」の在り方が見えてくるだろう。

さて、もちろん音楽を含むエンタテイメントと、「政治」は切り離して考えるべきだ。

だれも政治家に巧い歌や良い演奏は期待しておらず、ミュージシャン達に安全保障政策の対案は求めない。

しかし共通点はある。どちらも人気商売という事だ。

特に今時の政治家は・・。

ポピュリズムを全否定はしない。

だが様々な問題をはらんでいる事は確かだ。

私たちは本分をわきまえ、様々な情報を得て、アジテーションに惑わされず、ちゃんと自分の頭で「考え」をまとめよう。

そして自らの政治参加は、まず投票行動からだと思う。


この稿終わり。

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Mutsumu Nakajima

無差別音楽コラム

2つのマガジンに含まれています

コメント3件

音楽は聴衆の時間を勝手に使ってメッセージする権利などない。音楽は慎ましやかなものでなければならない-高橋悠治 …というのを思い出しました
まあ音楽がある程度、能動的なのは良い事だとは思います・・。
何が言いたいのかわからないです。
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