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なぜ国民は藤田の戦争画に感動したのか?~戦争画よ!教室でよみがえれ㉜

戦時中に描かれた日本の「戦争画」はその出自のため未だに「のけ者」扱いされ、その価値を語ることを憚られている。ならば、歴史教育の場から私が語ろうではないか。じつは「戦争画」は〝戦争〟を学ぶための教材の宝庫なのである。これは教室から「戦争画」をよみがえらせる取り組みである。
 目次
(1)戦争画とは何か?
(2)わたしが戦争画を語るわけ
(3)戦争画の鑑賞法
(4)戦争画を使った「戦争」の授業案
(5)「戦争画論争」から見えるもの
(6)戦争画で学ぶ「戦争」の教材研究
(7)藤田嗣治の〝戦争画〟を追って(「藤田嗣治とレオナール・フジタ」改題)

(7)なぜ国民は藤田の戦争画に感動したのか?ー藤田嗣治の〝戦争画〟を追って②

 菊畑茂久馬は、戦後に前衛美術のホープとして名を馳せた長崎出身の画家である。少年時代の空襲体験を描いた『天河十四』という作品では焼夷弾で焼ける町の炎が天を真っ赤に染める情景を描いている。

菊畑茂久馬「天河十四」


 菊畑は戦争画について積極的に発言しているが、その根底には彼の少年時代の〝戦争画体験〟がある。戦時中のある日、絵を描くことが好きだった菊畑少年は戦争画と衝撃の対面をする。

「戦争もたけなわになって、学校から初めて、戦争記録画なるものを見につれていかれた。夢にまで見た本職の絵描きさんのほんものの絵の前で、体がしびれるような興奮を味わったことを覚えている」(菊畑茂久馬『フジタよ眠れ 絵描きと戦争』葦書房 昭和53年 p111)

第1回大東亜美術展会場1

 当時の学校が児童・生徒に“本物”を見せるために校外学習で美術作品を見に行くという事実は重要だ。戦争美術が美術と国民を結びつける重要なアイテムになっていたことを意味するからである。美術と国民の距離感が一気に縮まり、美術が「公」のものとして広く認知されたパイオニア的な出来事だった。これが我が国の美術史にとって重要な一大転機であったことは何人かの美術専門家が繰り返し指摘してる。

 絵を描くことが好きな少年がプロの描いた絵に感動するのは決して珍しいことではないだろう。この菊畑少年の心の高揚は絵の主題が「戦争」でなくとも起こったことなのかもしれない。だが間違いなく言えるのは、一人の少年の純粋な心を揺り動かす何かが〝戦争画にあった〟ということである。

「しかしかつて戦争中絵の好きな一人の少年が見あげたあの大画面のふるえるような感動の意味を、多少考察が粗略になるとしても今わたしにはどうしても問いたださねればならないのである」(同書 p9)

 以下、菊畑の「考察」の中で見逃してはならない点を指摘する。ここで取り上げた2点はなぜ国民は戦争画に感動したのか?という点につながる。

 ひとつめは「肉筆の重み」という指摘だ。

 菊畑は戦争画の戦後の苦渋は「肉筆の重み」にあるという。

「裏をかえせば戦争記録画の民族的規模の重い所有感を支えているのは、それが描写つまり一人の人間の手の作業であることにおいて外ならない」(同書p11)

 平面作品である絵は彫塑等の立体作品と違って一般的に具体的事象が人物及びその周囲を含めてリアルに表現される傾向にある。とくに藤田の絵はその傾向が強い。戦争という目を背けたくなる事象でありながら、リアルに表現されることで画家の技術の凄さや構図の巧みさに驚くだけでなく、まるで本物を見ているかのような臨場感に圧倒される。

 場合によってはその絵の中に入り込み、絵が表現する戦争という物語の世界で怖れや不安、勇気や希望を感じ取る。そして、現実と物語を行きつ戻りつする。国民は絵の中で戦争を「追体験」するのである。これは事実のみを局所的に切り取るだけの写真にはない絵画のもつ特徴である。

 ところで、ここで菊畑のいう「民族的規模の重い所有感」とは何だろうか。
 
「戦争画家の手の重みと暗さを解き明かすことのむずかしさは、近代戦争が国家の総力戦たらざるをえないというその全国民の戦争加担の手の汚れと、敗戦がすべての日本人にとって何らかの普遍的転向を経験させた後ろめたさに由来していると思われる」(同書 p11)

 国民全員が自国の勝利のために戦うことー第一次世界大戦以降の近代戦争の常識ーが、いわゆる「総力戦」である。「総力戦」であったことが「戦争」を描いた絵画による追体験へとつながり、より強い「共感」が生まれたのである。当時の戦争画が多くの国民を純粋に絵画として感動させたというその事実は近代戦争ゆえの特徴であるのかもしれない。

 しかし「総力戦」であるがゆえに日本人は全員が敗北経験をすることになる。負けた以上はこれまでの自分の考えに変更を加えなければ次のステップに進めない。ゆえに、絵を見たときのあの感動を捨てなければならないと考える者が出てくるのもあり得ることである。だが、かつての感動を捨てようとすることは、合わせて戦前・戦中に正しいと信じていたもの、場合によってはそこにある良質なものまで捨てることになってしまう。捨てようとするものの重さが、菊畑のいう「民族的規模の重い所有感」ではないかと考えられる。

 二つめは「甘い主題主義」からの脱却という指摘である。

 菊畑によれば、当初は国家が敷いたレールに乗って描いていた画家たちが途中で変貌し始めたという。戦争画は太平洋戦争末期を迎えて「甘い主題主義から脱し」て「地獄の絵画」となったという指摘だ。

「画面が固有の実体となって、地の底にしみ込んだ同胞の血をながめながら、地獄の絵画となるのである」(同書 p31)

 この指摘に最も当てはまるのは藤田といえるかもしれない。菊畑はあの『アッツ島玉砕』の絵を次のように評している。

「凍てついた氷の山を背景とした「アッツ島玉砕の図」は、地獄の怨霊までさむからしめる画面である。襤褸のような生者と死体が波のうねりのように、たゆとうている」(同書 p40)

アッツ島玉砕1943

 菊畑は玉砕図を描く藤田を次のように不穏当な表現をする。

「狂ってしまった」「とうとう爆発してしまった」「初老の狂乱であった」等々である。だが、私はこれらの言葉は藤田を称えるものではないか?と思った。なぜなら、最後に菊畑はこう言っているのだ。

「数々の栄誉も名声もみんな完全に捨ててしまった」

 一人の表現者としてこれ以上の称賛の言葉はないと言えるのではないだろうか。じつは菊畑は別の著書で『アッツ島玉砕』をわかりやすい言葉で次のように高く評価している。

「この絵は何度見ても美しい。どこか夢見るような詩情漂う絵、地獄の殺戮図でありながら、宗教画を見るような荘重な気持ちにさせられる。藤田の戦争画の中で最もすぐれた絵だと思います」(菊畑茂久馬『絵かきが語る近代美術 高橋由一からフジタまで』弦書房p230)

 菊畑のいう「宗教画を見るような荘重な気持ちにさせる」について以下の有名なエピソードがある。藤田の絵に供養のために膝まずき、手を合わせる国民の姿である(これはすでに一度引用しているが再度掲載する)。

「偶偶記録画巡回展が青森市で催された時のことである。
 その前年札幌で同じく巡回展の帰路、あの海峡で暴風雨に遭遇して青森港に上陸したのは暁の二時頃だった。やっと駅前の安宿にそれも親方にたのんで布団部屋に寝かして貰った。その縁故で再びその安宿を選んだ私を歓迎委員等は血眼になって一流旅館を穿鑿して居る最中、単独で会場に滑り込んで居た私は、そのアッツ玉砕の図の前に膝まづいて両手を合わせて祈り拝んでいる老男女の姿を見て、生まれて初めて自分の画がこれ程迄に感銘を与え拝まれたと言ふ事はまだかつてない異例に驚き、しかも老人達は御賽銭を画前に投げてその画中の人に供養を捧げて瞑目して居た有様を見て、一人唖然として打たれた。
 この画丈けは、数多くかいた画の中の尤も快心の作だった」(夏堀全弘『藤田嗣治芸術試論』美術の図書三好企画 p322~323 藤田嗣治直話)

 また、美術雑誌の編集に携わっていた編集者の富田芳和は藤田の真意と当時の国民の姿を次のように言っている。

「「一人の老婆にも一人の赤ん坊にもこの画が分かってくれてお父さんか息子か兄さんの姿だとこの画の中の人物を見て貰えばいいのです」(前記手紙)フジタは「アッツ島玉砕」をだれに見て欲しいかを語っている。同時にどのように見てほしいかも伝えている。描かれた死体、死に直面した兵士を自分の身内だと思って欲しいと言っている」
「「アッツ島玉砕」は、公開された「国民総力決戦美術展」(昭和十八年九月)で鑑賞者に異常な感動を与えた。戦意高揚の血をたぎらせたという意味ではなく、祈りを捧げる巡礼者にさせたのである」(富田芳和『なぜ日本はフジタを捨てたのか? 藤田嗣治とフランク・シャーマン1945~1949』静人社 2018年p33)

 藤田はすべてを捨てて戦争の「真実」を描いた。上記の引用を見てもわかるように、それは当時の国民全員が戦争を追体験できるものだった。

 つまり、藤田は国民全員が共有できる日本人の「物語」を描いたのだと言える。菊畑少年の「感動」もそこにあったに違いない。

 最後に菊畑の藤田作品への強い想いを紹介する。

「発表当時から圧倒的な賞賛を浴びたようですが、戦後になって、もう描かれて六十年近くなりますが、評価は動かしようがありません。どんなイデオロギーをぶっかけても評価は動きません」(菊畑茂久馬『絵かきが語る近代美術 高橋由一からフジタまで』弦書房p232)

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