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ついにここまできたか!!移動○○車

このタイトル。客観的に考えて、すごい時代になったなあ、という感想でございます。決して営業妨害ではありませんよ。文字が大きいので、あえて伏字で「移動○○車」としました。すでにご存じの方もいるかな。
(検索したらすぐ出てくるので、あえてサイトは載せません)

移動検診車とか、移動販売車とか。昔からあるもの、高齢化が加速してから誕生したものなど、いろいろありますが、「移動葬儀車」は皆さんの中ではアリですか?ナシですか?

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フリーランスなのでいろいろな業界の仕事(広告コピーやフリーペーパー・雑誌などの記事を書くこと)をしているのですが、葬祭関連の仕事もしているのでたびたび調べ物をします。以前は図書館一択でしたが、インターネットが普及して便利な時代になりました。

今年になって、新聞広告で「移動葬儀車」なるものを見つけ、目が点に👀
霊柩車ではありませんよ。「トラック内部が葬祭場になり、希望する場所へ来てくれて、その場でお葬式ができる」というサービスです。キャンピングカーのような使い方です。2021年ごろから始まったようで、山間の過疎地、離島、介護施設など、行ける所ならどこへでも。

すでに実際に稼働していますが、都市部ではさすがに見かけません。
家族葬が増えたとはいえ、自宅より、葬祭ホールを使うのがまだ主流のようです。仕事で「弔いの歴史」について調べたことがあるので、ざっくりまとめてみました。

●1970年代以降、現代の生活スタイルに合わせて葬祭ホールが普及

 コロナ以降、家族葬が急増しているようですが、葬祭ホールで現在のような葬儀が営まれるようになったのは、1970年代以降と言われます。それまでは、故人のお葬式は故人の家に祭壇をセットし、親族や近所の人たちが葬儀の準備や食事の世話など、細々と手伝うのが一般的でした。近所付き合いが大切だった理由の一つでもあるのですが、隣近所のお付き合いも希薄になり、集合住宅などに住む人も増えて、葬儀のすべてを葬儀社が代行してくれるようになったわけです。
 1960年代頃までは、会葬者が長い葬列を作り歩いて棺を火葬場まで運び、火葬や埋葬の式までを行う“野辺送り”のスタイルが残っていました。私の家のある地域にも、「昔ここは火葬場だった」という場所があります。昔は特に建物もなく、土や石を積んで火葬する場所を作っていたそうです。今そこにはお地蔵さんがあります。
 霊柩車の登場は大正初期。昭和に入り車社会が進むと、野辺送りが通行の妨げになるなどの理由から、都市部を中心に霊柩車が普及しました。

仕事の資料から

●縄文・弥生時代に誕生した葬送の儀式や墓地の原型

 葬送の儀式は、縄文時代や弥生時代にもありました。縄文時代中期以降に造られた集落には、中央の広場を囲むようにして住居が造られたものが多く、その広場に墓が造られました。当時は死を忌み嫌う意識は薄かったようです。
 弥生時代になると、土中に埋められた棺のそばに数個の支石を並べ、上に平たい巨石を置いた現在の墓標に近い形が現れ、縄文時代には希薄だった死者への追悼や祖先への崇拝の気持ちがわいてきたと思われます。さらに、方形にはっきりと区画され、周囲に1、2mの溝が掘られて盛土がされた墓地が、10基前後まとめて集落から離れた丘陵地に造られました。そのスタイルは近畿地方から全国へと広がり、現在の墓地のルーツとなったようです。
 葬送の手順としては、死者が出ると、新たに造られた喪屋に棺が安置され、死を悼む儀礼が行われました。その期間を”もがり”と言い、「埋葬地を造営する期間」「死者の彷徨える魂を鎮める期間」「再生を願う期間」など諸説あります。『魏志倭人伝』には、一般的な葬送について「亡くなると十日余り喪に服し、肉を食べず、喪主はあたりはばかることなく声をあげて泣き、集まった人々は歌い、踊り、大いに飲む。」といった様子が書かれており、現在の初七日や四十九日の供養に近い儀式だったと思われます。

仕事の資料から。参考文献:『お葬式の日本史』新谷尚紀(青春出版社)

こうしてみると、葬祭ホールになったとはいえ、親族や近しい人たちが集まって行う葬儀は、古代からのしきたりをほぼ踏襲しているとも言えます。しかし、今までになく葬儀の形が多様化し、墓地や仏壇にこだわらない供養のスタイルが提案され始めたのは、やはり高齢社会とこのコロナ禍がきっかけでしょう。

移動葬儀車がどの程度普及するのか。
さらに予想を超えるスタイルが生まれるのか。どんなビジネスが生き残るのか。でも100年もすれば、そんな時代もあったんだ~という昔話になるんでしょうね。


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