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明智光秀の敗因

日曜日は麒麟がくるの最終回でしたねー。
コロナのせいやから仕方ないですけど、長篠の戦いは数秒じゃなくて1話丸々取り上げて、山崎の戦いで最終回にしてほしかったですねー。
結局光秀は山崎の戦いで戦死してしまいますが、その敗因について気になったんで調べてみました!


1.秀吉の対応が早かった
本能寺の変が起こった当時、秀吉は備中高松城攻めの最中でした。
信長の死を聞いた秀吉は、信長の死を隠したまま毛利軍と和議を結び、高松城主の清水宗治の切腹を見届けてから京に向けて全軍を移動させました。
この中国大返しは10日で約200kmを走破するという光秀もびっくりの猛スピードだったそうです。


2. 諸将を味方につけられなかった
秀吉は事前に根回しをして、諸将が光秀側につくことを防いだそうです。
京への進路上にあった摂津衆には偽情報の書状を送り、中川清秀や高山右近ら多数を味方に組み入れたそうです。
又、名目上の総大将には信長の三男の信孝を据え、最終的に秀吉軍の兵力は20000人を超えたそうです。
一方の光秀は上手く諸将を取り込めなかったようで、盟友の細川藤孝は協力を拒み、光秀に大きな恩を感じていた筒井順慶も最後は秀吉に寝返ったそうです。


3.準備は万全ではなかった
秀吉は中国平定の為に信長軍の主力を任されていて、諸将を味方につけた上で予想以上のスピードで京に戻ったそうです。
しかし光秀は近江方面に軍を動かしていて、周辺勢力の助力も得られなかったので、十分な兵力を確保できないまま戦いに挑まざるを得なくなったそうです。

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