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私は私のままでいることを諦めない


今回は #あの選択をしたから というテーマで私の経験を語ってみようと思う。

これは、奇跡のおじいちゃんとの出会いと私が私のままでいられるようになったきっかけの話。

ありのままの私を認められない



小学生の頃の私は、私の置かれた環境や私という存在が、ありのままでは認められない感覚がいつも付き纏っていて、私自身が大嫌いで私という殻を脱ぎ捨てたかった。

私じゃない人になりたい、私じゃない人生を生きたい、その気持ちは誰にも言えない、女優やアイドルになりたいという夢になった。ただ、それを叶えてみようと動き出す勇気も、何か少しでもなりたい自分に近づける自信も、当時の私にはなかった。

そこで私は、誰も私のことを知らない場所でなら、私はその夢に挑戦できるのではないか?と小学生なりに考え、大学進学という形で上京しようと誓った。それからは鬱屈とした毎日から現実逃避をするように、勉強に打ち込み、図書室にある本を漁っては読んで違う世界へと旅をしていた。

中学受験に失敗し、この環境があと3年継続することが確定した時、私はせめて今の環境からは必ず抜け出そう、地元から離れた進学高校に進学しようと心に決めた。目下一番近い目標ができた私はそれだけを見て、毎日を過ごしていた。

無事第一希望の進学高校の合格通知をもらい、私の世界は変わるんじゃないか、高校デビューできるんじゃないか、そんな一縷の望みは高校一年生の春に砕け散った。

眼鏡をコンタクトにしてみても、少し容姿に気を遣ってみても、小中学校で上手く形成できなかった人間関係を、高校で綺麗に立て直せるはずがなかったのだ。

学力だけは誰にも負けていないと意地を張って強がっていた小中学時代とは違い、高校になれば学力さえ周りの人達に及ばなくなっていき、私の中で自分を認められるものは何一つなくなった。本当は入りたかった演劇部にも恥ずかしさが勝って入れなかった。

結局大学進学で上京することも叶わず、私はなんとか滑り込みで合格できた地元の私立大学に進学することになった。

小学生の頃から大学に進学したい理由は、上京するためだけだった私はここに来て、大学でやりたいことも見つからず、何をどうすればいいのか全く分からなくなったのだ。

そうやってどうせ私なんかが何をやったって、そんな考えばかりが蔓延る学生時代だった。

私には勇気を持てず、選択できなかったことで後悔したことがあった。自分が選択できたはずのことで、選ばなかった(選べなかった)ことがたくさんあった。

そんな私が、学生時代にこの選択をして本当に良かったと心から思うことがある。私は #あの選択をしたから ありのままの私を認めてあげられるようになったのだ。


私はあの選択をしたから



この選択は、一体どんな大きな選択をしたんだ?と気になりながら読み進めてくれた方には申し訳ないほど、些細な選択だった。

しかし、それが私にとっては大きな財産となる選択であり、私が私のままでいていいと心から思えた初めての経験だった。

「某ファーストフード店でバイトしよう、この店の求人に応募してみよう」

誰にでもあるバイト選び。たったこれだけの選択が私を変えたのだ。

不思議なことにどうしてこのバイトにしよう!と私が選択したのか、今振り返ってみてもよく分からないのだ。時給が高かったわけではない。大学から家までの帰り道だったわけでもない。ただ、なんとなくタウンワークを見て、目に留まったから応募した。たったそれだけの、当時の私にとっては何も気に留めることもない単純な直感の選択だった。

これはファーストフード店で働いたから、私は私のままでいられるようになったという単純な話ではない。当たり前だが、ファーストフード店で働けば誰でもそうなれるわけではないからだ。(もしそうなら全人類がファーストフード店で働けば人生ハッピー!働こ!ということになってしまう)

ここからお話しするのは、このバイト先で出会った運命のおじいちゃんが、私を私のままでいられるようにしてくれて、私のままでも誇らしいと思えるようにしてくれた、という話である。

運命のおじいちゃんとの出会い



そのおじいちゃんは、私がバイトの応募の電話を受けた人であり、私の面接をしてくれた人だった。面接の終わりにその場であなたは採用だと、電話を受けた時から採用しようと決めていたんだと話してくれた。

その時の言葉遣いが他の人より綺麗だったり、口が上手かったわけではない。ただ、電話口で話す声を聞いて一緒に働く仲間として考えた時、あなたを採用したいと思っていて、面接で話してやっぱり間違いないと確信したと教えてくれた。

その時の電話に対して、私は何か意識して良く見せようとしたわけでもなく、面接も含めて私はごく自然にやりとりしただけだった。それを評価してくれた。ただ何も演じていない普段の私を認められたような不思議な感覚を持ったのだ。

面接の時に特に印象的だったのは、一緒に働く上での擦り合わせが「何曜日働けるか」「時給がいくらか」「業務内容」といった条件ではなく、「今働いてる人にはどんな人がいるのか」「仕事をしていく上で大切にしていることは何か」などの擦り合わせだったことだ。

そのなかでも「このバイトは他の求人と比べると、時給は低いかもしれない。その代わり、ここでは出来ることが増えた時には、それに応じてどんどん権限を与えるようにしている。自分で考えて、自分の意思で決めたり判断できることが増えていくのはきっと面白いと思うよ」という言葉は、未だに鮮明に覚えている。

確かに時給が高いわけではなかった。家から近いわけでもなかった。ただ、この面接を受けた時に私は「このお店で働いてみたい、この人の作るお店で働きたい」と強く思ったのだ。


このお店には独自のおじいちゃんルールがあり、それが私にはとても心地良かった。


・メモはとるな!身体で覚えろ!
何度忘れてもいい、何度聞いてもいい、メモを取って頭で覚えたことはすぐ忘れてしまうから身体が覚えるまで何度でもやろう

何度同じことを聞いても絶対に怒らないし、どこまでを覚えていてどこが不安なのかきちんと聞いてくれる。そして誰一人嫌な顔をしないで、何度でも教えてあげるという文化ができていた。

私は生粋の文字好きメモ魔で、学校のノートも黒板だけでなく先生の話した言葉まで書きこみ、びっしり文字で埋まっているような学生だった。なので、最初にこれを聞いたときは大丈夫かな!?と不安になった。

しかしこれは接客業だからこそ、本当に大切なことだと感じたのだ。接客する時にメモを見ながら接客する人はいない。お客様の目を見て自然と会話するには、マニュアルや言葉が大切なわけではない。メモをしなくても自然と口からその言葉が出るくらい身体に覚えこませて、身につけたその知識とスキルがそのまま私になった時、お客様の心を動かすことができるのだ。


・自分で考えて行動しよう
誰かに何かを指示してもらうのを待たない、何かやるべきことを見つける、分からない時は聞いてみる

とにかく指示を待つ人間にはならない、今私がやるべきことを考える。それはこのバイトで身についたように思う。何をすれば良いのか分からないならば、次何をしたら良いですか?と聞く。これをしたら良いんじゃないか?と思うことがあるならば、次これしてみようと思います、と宣言する。

ここで良かったのは、決して一人で勝手にやらないということが徹底されていたことだった。これをやります、とやる前に宣言する。だから、宣言した時にその行動が間違っていれば、事前に何故それが今ダメなのか理由をつけて教えてくれるし、どうしたら良いのかを一緒に考えながら答えを導き出してくれるのだ。

そして、自分で正しい判断ができるようになった時には、権限がどんどん与えられていく。面接で言われた通り、権限を与えられて自分で物事を決められるということは、責任も発生するが非常に面白かった。権限が与えられたことに関しては、その人は誰かに教えることができる立場になる。そうやって、このお店には教えてもらう・教えてあげるという関係性がはっきりとあった。


・相手の立場になって考えよう
お客様から見たらどう見えるのか、仕事仲間から見たらどう見えるのか、常に意識しよう

常に私から見る世界ではなく、相手から見える世界を考える癖をつける。相手の立場になって考えると、これはやってあげたほうがいいな、これをしたら助かるだろうな、という細かい気づきがだどんどん溢れ出てくる。

相手の立場になって考えようというのが、実は奥が深いものだと私は考える。私が見ている視線から相手に良かれと思って何かをすることと、相手の見ているだろう世界をできる限り想像して考えて相手に何かをすることは全く違うからだ。

私はいつも私から見える世界で、相手にどう思われているのかを気にして小さくなっていたのだが、相手から見える世界を想像して考えた時、私は取るに足らない脇役で何か特別な感情を抱かれるほどの存在でもないと思えるようになったのだ。その時、私という目線で見る世界を離れて、違う誰かの目線で見る世界を想像してみることは、本当に大切なことだと感じた。


ファーストフード店なので、レジで接客もするし、厨房で調理もする。このお店では2人体制のことが多く、接客と調理のポジションに明確な線引きはなかった。どちらもやらなければいけないことも、同時進行でやらなければいけないタイミングも多い。

しかし、このお店で働く人達はみんな、もともと明るくて接客に向いています!というタイプではなく、どこか少し不器用な一面がある人達ばかりだった。それはきっと、おじいちゃんの採用基準にあったんだろうと感じていた。

何かコンプレックスがあるからなのか、自分にもできない不器用な一面があるからなのか、決して言葉が上手いわけではないけれど、心が優しい人達が集まっていた。ここでなら私は絶対に馬鹿にされたり、無碍に批判されたりしないと信じられる場所だった。

おじいちゃんは厨房に入るわけではないが、いつも店舗一番奥にある超絶狭い店長室で私たちを見守ってくれていた。たまに店舗の客席に座って、店内と厨房をゆったりと見渡しながらコーヒーを飲んでいた。

普段は特に何も言うことなく、静かに見守ってくれて、ふとした時に最近どうや?と声をかけてくれた。私は休憩時間やバイト終わりの時間に、お店であったことや学校であったこと、家であったこと、ありとあらゆることをそのおじいちゃんに話した。いろんな美味しいご飯屋さんにも連れて行ってもらった。


そのおじいちゃんは、絶対に私を否定しなかった。常に私の味方だった。
私にとってありのままの私を認めて受け入れてくれた初めての大人だった。


おじいちゃんはありとあらゆる出来事を聞いてくれて、その時にどんなことを感じたのか、どうしてそうしたのか、どうして悲しかったのか、どうして嬉しかったのか、どうしていきたいのか、どうしたらいいのか、そういうことを考えるきっかけをいつも与えてくれた。

そうやって私は、私が私の感じたままを話せる場所があることを知り、私が私のままで誰かと良い関係を築けることを知り、何かを良い方向に持っていくために"考える"ということがどれだけ大切なことなのかを学んだのだ。

私は私のままでいい



私は「このお店でアルバイトをする」という本当に小さな選択をしたことで、奇跡のおじいちゃんと出会い、心優しいバイト仲間と出会い、私は私のままでいてもいい場所が存在することを知った。

そして、私は私のままでいることを諦める必要がないということを知った。

そのためには、どうして?どうしたら?どうやって?と決して簡単ではない複雑で疲れるようなこともまぁいっか分からないで終わらせず、とにかく"考える"を諦めてはいけないことも学んだ。

私は昔から誰かと同じことをすることにこだわりがなかった。私がやりたいことに私の心を向けたかった。それが学校という箱庭では上手くできなかったのだ。

私の本音を隠して、誰かの望むものに合わせたり、誰かの望む姿を演じて、自らを偽ることのほうがよっぽど簡単だ。

私はいつも私のままでいようとする私が好き。
私がやりたいことに耳を傾けてあげられる私が好き。


この世の中が生きにくいことなんて当たり前だ。
自分のことさえ認められない人が、他人に優しくできないのは当たり前だ。

それでも、私を私のままで認めてくれたおじいちゃんがいたから。

私もありのままの私を認めてあげようと思えた。
私は私のままで生きることを諦めないでいようと思えた。
相手のありのままの姿も大切にできるようになりたいと思えた。

なにかを選択するということ



子供の頃は進学・受験・就職という人生の節目といえるようなイベントが生きていれば勝手に訪れて、そのたびになにかひとつを選択しなければならない、という状況が多かったように思う。

それは今後の人生を揺るがす重大な選択のように、私の目の前に大きく立ちはだかっていたのに、その当時の私から見える世界では選べる扉があまりに少なくて、本当にこの扉でいいのか不安になったり、開けることさえできない扉があってもどかしかったり、そういった経験を誰もがしてきただろう。

しかし、大人になってから分かったことがある。

一つめは、その当時には重大な選択のように思えたことも、結局時間が経ってみればなんてことのない選択の連続なだけということ。

二つめは、人生の中で重大な選択だと呼べるような出来事は、大人になると自分の意志で勇気を持って選択しない限り、勝手には訪れてくれないということ。

なにかを選択するということは、勇気なのだと思う。

大人になった私たちは、昨日の私よりも今日の私を幸せにするために、今日の私よりも明日の私が幸せに過ごせるようにするために、今日はなにをしようか、明日はなにをしようか、そんな小さな選択を一生続けるのではないのだろうか。


ちなみに最近の私は、自転車圏内で行くことができる素敵なカフェや本屋を巡ることがマイブームなのだが、ここで一つ決めていることがある。

そのお店に訪れた時、必ず誰かと対話をするということ。

これは、私が私のままでいることを諦めないための小さな選択であり、私という人間そのままで対話できる人を増やすための挑戦なのだ。

基本的にお話をするのは店主さんだが、店員さんであったり、たまたま居合わせたお客さんの時もある。誰かと対話してみよう、そう意識して世界を見るだけで意外と話してくれる誰かはそばにいる。その場で一度きりの出会いもあれば、継続して関係が続いていく出会いになることもある。

あの時、あのお店で声をかけたという小さい選択が、素敵な出会いを生むかもしれない。そう思っただけで、私の日々は奇跡のように輝いて見える。

いつか、まだ出会っていないありのままの貴方と話せる素敵な日が訪れることを願って。


このとりとめもない長いお話を読んでくださったすべての方に感謝します。

普段はボーイズグループオタク狂をやっているので興味のある方はぜひそちらのnoteも覗いてやってください。



P.S. 奇跡のおじいちゃんについて

私が〇〇(苗字)のおじいちゃんと呼んでいたのでそのままおじいちゃんと書きましたが、全然父親でもおかしくない年齢の本当に優しい方でした。

大人になっても変わらず、惜しみない愛を与えてくださったおじいちゃんに心から感謝を込めて、このnoteを締めます。

またいつか会いましょう!


2023.09.09.
Susan

いつも優しい心をありがとうございます! 届けてくださった愛は、noteの投稿でお返しできるように頑張ります♡ 感想やコメント、スキ♡だけでも十分気持ち伝わっております(T_T)♡