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現代アートを理解できるという思い上がり

こんにちは。Kiwi PR合同会社の植田聡子です。

目[mé]

数年前から注目されている荒神明香、南川憲二、増井宏文の3名の現代アートチーム。

2013年に宇都宮美術館で行われたプロジェクトもアート界では話題でした。

今回の都内のプロジェクトに特段関わったわけではないですが、目[mé]のプロジェクトということで、個人的にとても楽しみでした。当日は残念ながらリアルでは見ることができなかったけれど、とうとう披露されたのだと。一般のニュースもテレビ、新聞がこぞって取り上げていました。

それだけに、ネットニュースやTwitterにあったコメントは非常に考えさせられるものがありました。

「怖い」
「気持ち悪い」
「意味わからない」
「生首みたい」
「歩いてて遭遇し得る&見て怖いと思った人の逃げ道がない方法で展示してる」

美術館、ホワイトキューブの中でそれを理解しようと思う人が見るアートと、全く不意打ちで目にする得体の知れない物体。そのセレンディピティすらアートなのだと、アート界の人は理解していても、それを皆が理解できるわけではない、という前提を改めて突きつけられるような想定外。

しかもオリンピック、公金を投入した作品の場合、その点がいつも議論の的になるのです。

私自身は、アートというものは行政は予算を投入しても、作品に介入することは違っているという持論があります。自分が理解できないものも含めて、そのアーティストの自由であり、表現なのだから。

でも、一方で、誰かが恐怖を感じたり、不安になったり、不快に思うこと。

そうなると、少し自分の考えがざわざわする。強い覚悟がいつも揺らいでしまう。怖い、トラウマ、怒り、ネガティブな感情をネットにぶつけてくる人々。アートに対しては賛否あるのは常とはいえ、「ハラスメント」と表現されると、なんとも複雑な気持ちになったのも事実。

それでもやっぱり検閲すべきでない、と思う。

アーティストによっては、忖度する人もいるし、あえて闘う場合もあります。

山口晃さんが東京2020に対して、政治に対して、自身の表現を作品にする。この作品について、私は担当として検閲したくなかった。(結果、ほとんどしなかった)

当時、すごく心配する幹部もいたが、それでもアーティストがこう表現したいのだ、という思いを、主催者側が何かを危惧して作品に歪みを加えるような操作はすべきでないとやはり思うのです。そんなことをするくらいなら、最初からやらなくてもいいくらい、介入はいい結果は生みません。

そういう意味で、私はかなりアーティスト寄りのスタンスでずっと関わってきています。

アートを理解しようと。今の時代にないものを理解できないと受け入れられなくても、それは今の尺度でしか評価できないだけなのだから。

それをわからないと言ってしまうことは、自分の幅の狭さを露呈するようで。だからわかっているふりをしているのかもしれない。

アートを理解できるという思い上がりを捨てよう。

理解できないこともある。理解できない人もいる。

現代アートはただ風景を描くだけじゃない。何らかのアーティストからのメッセージがあり、思いがある。

作り手、受け手のいろんな思いも含めて、アートと関わっていくことを大事に思っている。



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