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#もにょろぐ 「ごめん」の大切さ。

高校の部活で演劇と出会った話を書いたけど、それよりも前にひとつ演劇エピソードあったな? と思ったので書いてみる。

小学校5年生の時、神奈川県相模原市の小学校から東京都町田市の小学校へ転校した。これを神奈川から東京への転校ととらえると都会に出てきたような印象が生まれるけど、わたしの視点では逆だった。
わたしが通っていた相模原の小学校は、各学年3~4クラスと特別支援級。図書室が3つ。池も3つ。中庭と校庭、正門前にも遊べる庭。米軍ハウスと呼ばれるものが隣接していたので外国人の生徒がクラスに1~2名。当時はまだ他の小学校にはなかった英語の授業もあった。
転校後の町田市の小学校は各学年2クラス。図書室は1つ、池なし、校庭のみ。クラスにいるのは健常者の日本人だけ。英語の授業はない。
「広いところから狭いところに引っ越してきた」くらいの印象だったけれど、受け入れる側はそうではなかったようで「田舎者が来た」と笑われた。
この町田市と相模原市どのくらい離れているかと言うと、川で隔てた隣同士市で、わたしが住んでいた最寄り駅で数えても二駅。
今言われた笑ってしまうところだけど、当時は相手も自分も真剣にこの「田舎者」という言葉を受け止めていたと思う。
当時からひそかに「井の中の蛙ってこういうことなんだなぁ」って思っていたりして、それがにじみ出てしまったのか関係なくかわからないけどいじめはちょっと激しくなったりした。

いじめの内容は決して壮絶なものではない。
誰も近寄らない、話しかけない、うっかり触れてしまうと「~菌がうつる!」と騒がれる。騒ぐほうが真剣で、ありもしないはずの「~菌」を本当に怖がっている。つまり、相手も楽しくてやっているわけではなかったんだろうなと思い返せばわかる。
ニヤニヤ楽しんでいたのはごく僅かで、影響力の大きい人だった。
前の学校ではいじめを目の当たりにしたことがなかった。だから最初はそれがいじめだと気づかなかった。
大人になれば一人でも平気ですごせる。でも、子供はそれが難しい。授業では班行動も多いし、給食は机をくっつけて食べなければいけないけど、誰も机をくっつけてはくれなかった。かといって壁と向かい合って食べることも許されなくて、居場所がなかった。居場所がないのに居続けなくてはならない。苦痛だったけれど、決して危険があるような壮絶なものではなかった。
そのクラスではコの字型に机を並べていて、通常の編成よりも隣の席との距離が近くなる。席替えのたび、くじを引いてわたしの近くの席が当たると叫んだり泣いたりする人がいた。いつも端っこの席になりますようにって祈ってた。
学級会で「もにょさんが何を直したらいいのかみんなで考えましょう」と議題になり、いろいろとご意見をいただいたりもした。先生はニコニコと「これを直せはみんなと仲良くなれるから頑張りましょう」と黒板にチョークを走らせていた。

そんな通うだけでも精いっぱいだった小学校。六年生の時に学芸会をすることになった。演目はロビンフッド。ディズニーアニメのロビンフッドが大好きで、ロビンフッドの役に手を挙げた。どうせ何をやっても無視されて、嫌がられるんだから好きなことをしようと思った。
ロビンフッドはオーディションをすることになった。台本を実際に読んだり演じたりする。隣のクラスも合同だった。もう一人立候補していたのは同じクラスのどちらかと言うとやんちゃな奴でいじめの中心に近い、でも彼が中心ってわけでもなかったんよな、難しい。仲間が多いタイプの人だったし、自分を推薦してくれる人なんていないだろうと、悔しく思いながらも精いっぱいオーディションに臨んだ。
それぞれ短いシーンを演じ終わると、挙手で多数決をとる。当然相手の圧勝。だと思った、のに。一瞬どちらかわからない。先生が数を数える。その光景に息をのんだ。結果は惜しくも一票差で負けてしまった。だけど、自分を嫌がる人が多い中で票を入れてくれた人がこんなにもいることに驚いた。

これが初めて「舞台の上では誰も自分を無視しない」と感じた瞬間だった。

この時ロビンフッドの役を争った彼とはその後中学でも縁があった。
校門を入ろうとすると、女性に声をかけられて「あ、あなた! お願いこのお弁当を1年A組の〇〇に渡して!」とお弁当を託されて、女性は足早に去ってしまう。校章の下にクラス章を付けていてそれで同じクラスだと分ったんだと思うけど……わたし、あなたの息子さんにいじめられてるんですけど……と複雑な思いだった。
当然お弁当を渡したらものすごく嫌がられた。小学校のころほど顕著に「~菌」とは言われない。他の小学校からも人が来ていることもあり、訳の分からない言動すればドン引きされるのは相手の方だったというのもあったと思う。

それから十数年。
中学校の同窓会をすると案内が回ってきた。いい記憶、悪い記憶色々あったけれど、過去を引きずるのは止めにしたくて、演劇を通して変わった「今の自分」でみんなと話がしてみたくて参加した。
ちょっと遅れてしまって、会場に着いた時にはみんな飲み始めていた。案内された席のすぐそばで彼が泣いていた。ちょっとしか遅れていないつもりだったけどずいぶん出来上がっている様子にびっくりして「え、ちょっと大丈夫?」みたいなこと言っちゃったと思うんだけど、そしたら向こうも話しかけてきた。「今日来てくれてよかった。ずっと謝りたかった。ごめん」と泣きながら言う。嫌味のひとつでも言ってやろうかとも思っていたけど、そんな思いも吹っ飛んで「子供のころの話だよ。今こうして話してくれるならいいよ」って言っちゃった。きっと泣いていた理由はぜーんぜん関係ないことだったりするんだろうけど、なんかもう許せた。覚えていたってことは、彼の中でもよくない行いとして後悔があったってことなんだと思う。
謝るって大事。たった一言「ごめん」って言える人と言えない人とではすごく大きな違いがある。謝っても何も変わらないって考えの人もいるし、そう感じることもある。けれど、謝って変わることもある。悪い記憶も、その瞬間に笑って話してもいいかなって話になった。

わたしがこのいじめを許せたのは実は、このいじめが比較すると小さなことになってしまうほど別の問題を抱えていたという要因がある。
マイルドに表現すると、母子家庭にも関わらず母親とうまくいっていなかった。家でも学校でも落ち着ける場所がないのは非常につらかったけれど、学校では暴力を振るわれる心配はなく、少なくとも給食を食べることが出来るという点では休めなかった。それも6年生になるときに給食室の工事が始まったため弁当持参になったけど。もちろん作るのはわたし。弟の分も。
家庭内での問題に比べたら、暴力を振るわれないし、卒業すれば終わりがあると考えれば救いがあった。
たまたまわたしにとってはいじめが人生の最大の苦しみではなかったので許せてしまった。でも多くの人の場合そうじゃないだろうなっていうのは分る。わたしも母にされたことを許せずにいるから。
ただ親子の問題は難しい部分があって、「自分を虐待する母を庇う子ども」の部分も自分には存在している。精神的に追い込まれていたであろう母に、一人の人として理解を示したい部分もある。でも自分の苦しみは嘘でも大げさなことでもなく、確かにあって離れた今も時々その影響を感じてゾッとする。
……という話は長くなるので別の機会に。

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