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『数学の世界史』を読んで

ぼくが数学を学んでいた時にこの本が欲しかった。『数学の世界史』を読んで、そう思わずにはいられなかった。

数学には苦手意識があり、数式を見るだけで頭痛がしてくるようなぼくでも、いやそんなぼくだからこそ、数学に前向きに向き合おうと思えるような本だった。

なぜなら、この本が、数学の奥深さや面白さを伝えてくれる本だったからである。

数学というと、ぼくの中では「正しさ」をどう導くかの機械的な作業だった。公式を暗記し、問題に応じて適切に使用し、解を導いたり証明したりする。このような「処理」を学ぶ教科だとして、特に面白さや楽しさを見いだせなかったのだ。大概、理系科目はそのような印象を全般的に抱き、あまり好きになれなかった。

むしろ、文化や歴史といった、人の営みや物語を学ぶことで、自分なりにそれを解釈したり、人と意見を交わせるような文系的な学問のほうを好きになっていった。「正しさ」より「面白さ」のほうが、当時のぼくの学ぶ意欲をかき立ててくれたのである。

しかし、本書を読んで、そうした数学の認識が変化した。文明の興亡と数学が結びつくことで、数学を物語として捉えられるようになり、興味を持てるようになったのだ。

数学というと、ある種の普遍性を想起するのが一般的ではないだろうか。どの地域でも、どの時代でも、共通のルールがある学問ではないかと。

だからこそ、数学を学ぶということは、その「正しさ」を導くことを習得することを意味すると思っていた。それがとても退屈であった。

だが、本書が明らかにする数学の歴史は、そんなぼんやりと抱いていた数学のイメージを覆してくれる。数学とは、(考えてみれば当たり前だが)実に多様な伝統が時代や地域ごとに育まれてきた、多様な在り方を持つ学問だったのだ。

もちろん、数学が時代や地域に依らない「正しさ」を持つことは事実である。本書の例でいえば、47は素数であるが、91は素数ではない。こうした正しさは時代や地域を問わない。

しかし、数学の正しさにどう向き合うのか?その見方や基準はローカルなものである。今のぼくらが当たり前に使用している西洋数学の形式も、多様な数学の在り方を征服しつつ同化していった結果である。

そもそも西洋数学を少し遡れば、そもそも使用していた数字がアラビア数字(1,2,3,…)ですらなく、ローマ数字(Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ,…)での記述だった。使用する文字すら西洋ローカルでは違ったのだ。

例えば、ローマ数字の「MCMLXVⅢ」は「1968」を表すらしい。詳しくは本書を参照してほしいが、現代数学のアラビア数字表記に慣れていると、このような記法で数字を扱っていた時代の数学の困難さは計り知れない。
※古代エジプトのヒエログリフは特に難解で、本当にあれで運用できていたのか…?と疑わずにはいられなかった。

そのような、各文明ごとに育まれた数学が、影響し合いながら「同化」したり、またローカルな数学を「征服」することによって、今の数学の形に統合されていった。その壮大な世界史的な物語を描くのが、本書である。

ぼくは、本書を通じて「正しさ」だけではない数学の側面に触れることができた。数学の発展には文脈があり、文脈に沿った視点や基準によって形式が育まれ、一つの体系として構築されていく。そうした文化的な側面が、数学にはある。

これを踏まえると、今のぼくらの数学も1つの数学の体系に過ぎず、数学の「正しさ」への視点は常に潜在的に変化の可能性を抱いているだろうと想像できる。実際に、圏論などの登場で、数学の体系(パラダイム)は変わりつつあるらしい。

このように、数学に文化や歴史の視点が入ることによって、実に数学が面白そうだと思わせてくれる本だった。読後、改めて数学を勉強し直してもよいかもしれないと考えるようになった。

また、理系/文系という区分で分けて学問をフレーミングしてしまうことの罪も感じた。もっと『数学の世界史』のように文理融合的な内容のテキストが作成・普及されればよいのにと思う。

改めて、『数学の世界史』のリンクを貼っておく。

ちなみに、この本は「ZEN大学」の講義のテキストとして使用される予定とのこと。この本の内容に触れられる生徒たちがうらやましい。

※以下、余談

『数学の世界史』の前に、たまたま柄谷行人氏の『トランスクリティーク』を読んでいた。

その第一部第2章には、カントを中心に数学と哲学の交流が描かれている。数学の世界史と併せて読むと面白いだろうし、このような文系と理系の学問的影響関係を、世界史的な枠組みで捉えるような本があれば、もっと読んでみたい。

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