ルーティンと金継ぎ
1300年間で2人目となる大峯千日回峰行満行を果たした塩沼亮潤大阿闍梨。
ご著書の『歩くだけで不調が消える 歩行禅のすすめ』を読んでみた。
心の針がくるくる回り続けていて苦しい。そんな私が、「ルーティンをしたい!」と思ったのは、いい方法のようだ。とりあえず、5分ヨガは1年以上続けている。
刺激が少ない?ので、最近は家の換気も兼ねて、あちこち窓を開けて、ほぼすっぽんぽん(!)でやっている。
それプラス、西式健康法も始めた。青汁1杯で生きておられるという森美智代氏の本を持っていたから知ってはいたのだけれど、やろうと思ったことはなかった。森先生のワークショップに参加することになって、この本を引っ張り出してきた。身体の歪みをなんとかしなきゃと思っていたところだったから、試しにやり始めた。
1日3回と書いてあったけれど、朝しかやっていないし、まだ二週間くらい。劇的な変化はないものの、身体が少し軽くなった気がする。
朝食を食べないので、朝ご飯がわりだと思って、続けることにした。
このルーティンに必要なのは、情熱だ。やらされているのではなく、ありがたいと思ってする。これで、魂のステップアップがはかられるとのこと。私は、器が小さいから、是非是非、ステップアップしたい。
他にも、色々と心惹かれる箇所があったけれど、一番は終章のここ。
リサさんは、塩沼氏がアメリカを訪れたときに滞在させてもらった家の人。金継ぎというのは、割れたりひびが入った器を漆で接着し、継ぎ目の部分に金などを入れて装飾する技法。
かけらを繋いでいる金の部分が”真理”だと言う。これって、膠着語である日本語であり、神道のことじゃない?
日本語も神道も日本の文化そのもの。室町文化が今の「日本の文化」の根源だと言われるけれど、ほとんどが中国由来のもの。その解釈の仕方とそこからのアレンジが日本文化の真髄。
で、結局、それは「愛と祈り」であり、どの宗教にも通じるとのこと。マレさんじゃないけれど、「盛大な拍手!」だよね。
今、「ことば」が踏みにじられている。「ソーシャルディスタンス」だとか「クラスター」だとか、人々が”新しい”と感じるカタカナ語でかき回されている。また、同じ日本語を使っていても、「ことば」が通じないということも思い知った。
「ことば」ではないところでコミュニケーションをするとすれば、「愛と祈り」しかないということになる。
今、この茶番で私の家族はバラバラになった。でも、きっとまた一つになれるということだ。
私は「罪悪感」が強すぎるから、塩沼氏の提唱する「歩行禅」はちょっと向いていないと思う。だけれど、それ以外のところで、いろいろと「元気」をつけてもらった。どうして「元気」になるのかと言えば、どうすればいいのかが分かったから。
机上で得た知識も大事だけれど、身体を通じて得た人の言葉は違うなと。
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