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書き続けます


書き始めること、書くという修行について

お久しぶりです。社会人1年目に突入したということもあって、あまりnoteを書くための時間を取れていませんでした。

書き続ける、ということはとても難しいことだな、と思います。完璧主義、といいますか、自分をなるべくクールに、かっこよく見せようという邪念を追い払うことが必要な気がします。大げさにいうと、書きあげた文章の節々に散りばめられかねない、自分の愚かさや過剰さ(=イタさ)をさらしても構わないのだ、という覚悟がいります。私のような素人は「いきおい」がないと全く文章が書けないですし、見直し始めた途端にたちまち筆が止まってしまいます。だめだ、こんなもの人様に見せられない、恥ずかしい、、そういった思いをグッと堪えて、とりあえず前に進みます。書くことは修行ですね。

平日はまとまった時間がなかなか取れず、細切れの時間で忙しなく返信、Twitter(もうXなのか)での断片的な情報収集、疲れ切った頭に脳死で流し込むYouTube、、そんなデジタル退廃的な生活をしていたら、物事にじっくり集中するのが難しくなったような気がします。好きだった本とかも、あんまり活字が追えないので、最近は湯船にお湯を溜めて、ケータイを外に置いた状態で風呂に入りながら本を読んだり。なんだか色々ですね。

すべての物語は欠落からはじまる

最近は、「物語を作る魔法のルール」という本を読んでいました(ほとんど風呂場で)。とっても面白いです。

私は小説が大の苦手で、本が好きと言いつつフィクションが全然読めないんですよね。でも、なんでこの本を手に取ったかというと、こういう体裁の本なら「物語」に近づけそう、というのがありました。もう一つ。なんか、最近人生に「物語」ってやつが足りてないんじゃないか、っていう気がしていた。

この本で特に印象に残る表現が一つ。それは「すべての物語は欠落からはじまる」というものでした。過去にnoteで言及した『生き延びるためのラカン』(斎藤環)でほんの少しかじった、精神分析における「欲望」と「欠如」の関係を彷彿とさせるような表現です。もちろん、これは書き手がプロットを作るときの原則であって、私たち個人の実存に対してどう、とかいう問題とは異なるのかもしれないですけど、とってもリアリティがありました。何かこう、人間に爆発力や劇的な創造性をもたらし得るのは、きっと「何かが足りない」という空腹のような状態なのでしょうし、あまり快適とはいえない不快な状況におかれて、ひとは初めて悶々と考えだすのではないか、という気がしていたからです。職場にいて色んな人と接すると、何か頭のネジが一本外れたような切迫感を持って邁進する人を見かけることがあります。そういう人の影に、必ずしも「楽しい」とか「嬉しい」といったポジティブな動機だけではなく、深い欠如を強迫的に埋めようとしているかのような切実さを感じとることがあります。

Florence + The Machine、彼女らの音源を聴いていると、生命の源から元気になるような心地がして、とっても好きなアーティストです。これは欲望と欠如についての歌に聴こえます。

「人生に物語感がない」というのは、自分の抱える「欠如」を上手に受け流す術を覚えた、ということなのでしょうか。こうした必死さというものに、だんだん距離をとるようになってきたのは、成熟といえるのか、それとも疲弊というべきなのか。私はどちらも正しいような気がします。ある友人から、「昔は才能のある同期などに対して感じていた『悔しい』という感情が、ここ最近生まれなくなってきたことに、一種の焦りを感じている」といった趣旨の悩みを聞いたことがありました。私も、同じような焦りがあります。20代は、もっともっと、精神的に切迫していても良いのではないかという思いを、どこか辛いことを避けて生きているような自分に対して、抱いています。欠如がない、というのは欲望を失った、ということでもあると思うので。

モノとして欲望されること、記号を手に入れること

具体的なツイートをここに引用するのは避けますが、冴えた考察と言語化でTwitterで有名な、おそらく私と同年代ぐらいの方が「私はルッキズムから解放されたいんじゃなくて、ルッキズムの中で報われたい」というどなたかの言葉を紹介されていました。

この言葉を見たとき、すごく腑に落ちた感じがしました。街中を歩いているとき、目を惹くようなハンサムな人や美人な人を見ると、自分の中に色んなものが湧き上がってくるのを感じます。文化的価値や経済的価値を仮にいくら自分が高めようが、彼/彼女らを原理的に超えられない何かがある —— といった感覚がうっすら心の中に浮き上がってくるのは、私も外見至上主義を内面化しているということなのだろうと思います。もっといえば、文化的価値を高めようなどという動機は、結局のところ、原始的・本能的な価値において自分が優越できないという欠如を昇華しようとする動きの表れであるような気がします。

「結局全部ファルスなんだよ」
仲が良い友人の宅でお酒を飲むときにいつもいらっしゃる哲学や社会学に造詣が深い方がいるのですが、彼がよく言うセリフをことあるごとに思い出します。

いまだに、精神分析において「ファルス」という言葉が、具体的な身体的部位を指すものでありながらも、それがなぜ社会規範や言語、記号といったものに抽象化されうるのか私は理解できていません。とはいえ、この概念が持つ原始的な響きと、具体的で生身の<他者>から切り離して、身体部位を淡々と示す記号的な響きと言いますか、それは人間の欲望の本質をなんとなく言い当てているメタファーのようでもあります。

「何者かになりたい」というのも、それを突き詰めたら「社会的な名声」といった記号を欲しているのではないかと思います。「ありのままのあなたで良いのよ」という言葉が実際に誰かを救ったという話を、私はあまり聞いたことがありません。具体的で個別的な<他者>として、すなわち自分そのものが愛されること、これは幸せなことに間違いないでしょうが、自分が記号(他者の欲望)を手にすることによって、モノとして欲望されることの独特な気持ちよさ、というのはやっぱりあるような気がします。

情報処理は人工知能に任せて、自然に還りたい

まだまだ人工知能が全てにおいて人間に凌駕している、なんて時代ではないかもしれないですけど、あらためて「人間が考えること」の意味とはなんぞや、と問うたりします。今のところ、人間でいることの醍醐味は「身体を持っていること」と「欲望があること=喜びを感じ取れること」ではないかと私は思ったりします。月並みですけど、これまでホワイトワークの文脈で求められてきた「情報処理能力」よりは、芸術的なもの、物語的なもの、そして原始的なものの比重を増やしていきたいなという気持ちがあります。

今日会った後輩はデッサンを始めたそうです。私は大学の途中で辞めてしまった音楽でも再開してみようかと思っています。あとは、曲に合わせて、ダンスを踊れるようになりたいです。ダンスに詳しくなったら、いつか自分の作った曲に対してミュージックビデオっぽいものを作ってみたいなと思っています。「何事も始めるには遅すぎることはない」と言ったりしますが、やっぱり遅すぎると良くないので、流石にそろそろ習い始めようかと思います。この間はトライアルを申し込んだのにやっぱり下手で恥ずかしいし付いていけなさそうだから行かない、となったのですが、今度はちゃんと行こうと思います。下手くそでもいいから始めます。

本が好きだし、本に一部救われてきたとも思っているので、いつか一冊の本を生み出す過程に何かしらの形で関われたらいいな、とも思ったりします。とりあえず今の自分にできることですが、自分が好きな本を書いた人がトークイベントとかをやっていたらなるべく参加するようにしています。そういうイベントに実際に出向いたときには、その人の生産物に対して、世界の誰かが強い興味を持っていますよ、ということを伝えられたら、またその人が生産をするための糧になれるんじゃないかと思って、機会があれば質問したり感想を言ったりするようにしています。noteでこうして細々とでも書き続けていることが、いつかこの延長線上に何か機会があったらいいなと思い、これからも細々とですが、書くことの修行を続けていきたいと思います。


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