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「別れ」というプレゼント

最近さまざまな人生の別れのことを考えています。

「別れる」「離れる」「卒業する」「断捨離する」

これらのことを語る人を観察していると共通のことを言っていることがあります。

「別れる」ということは「労力」がいるということ。

「結婚」より「離婚」する方が何倍も大変とかよく聞きます。

私も好きな人を自分から振ったことが1度だけあります。

その彼は稀代のモテ男であらゆる女性を恋に落とす人でした。

ルックスももちろんですが、女性達が彼にハマる理由はそれだけではありませんでした。

それは彼の中にある「寂しさ」でした。

それを「私が埋めてあげたい」と思わせてしまう「母性」に働きかける雰囲気。

女性誰にでも愛を求めるその姿勢は「私が愛さないと」と思わせる何かがあるのです。

初めは「この人にハマるのは危険だ」と思っていた私ですら、そうなのです。

きっかけは「君は(僕と)恋愛したいと思ってないでしょ?」の一言です。

「え…そんなことないし、嫌いじゃないし、むしろ好きかも知れないし」

みたいな戸惑いの感情が巻き起こったのを覚えています。

人生には感情を動かす言葉があります。

言葉より行動が大事という意見があります。

しかし私は言葉にすることも同じくらい大事な「行動」だと感じます。

「言葉にして伝える」って動詞じゃないですか?

喉の奥で声帯を揺らして思考したことをまとめて音声にする。

(地味だけどめちゃくちゃこれも行動じゃない?)

彼はその一言を発することで私の恋心を揺らしたのです。

その言葉は私にはこのように伝わりました。

「君は僕の側にいるのになぜ僕を愛してくれないの?僕は君に愛されたい」

拡大解釈かも知れませんが(笑)

結果として彼とは恋愛関係になっていきます。

私は男の人に「お弁当」って作ったことなかったのですが、
この彼には作って持って行ったりしてました(笑)

なんかおかんみたいです。

体の関係も彼とが初めてでした。

友達ぐるみで遊んだり出かけたり、それはそれは少し青春っぽいことを楽しんだのです。

しかしいい時は続きません。

別れは私からで突然でした。

きっかけは前の彼女と彼がまだ会っているところを目撃してしまったからなのですが。

「なんかもうやっぱりこの人はいつもこうなんだなぁ」

「愛そうと思ったのに別の人にも同じことをしている」

「私なら彼の寂しさを埋めて癒せるのではないかなんて思い違いだった」

このように感じ、思い詰め、ある日相手を公園に呼び出しました。

ルンルンと楽しそうに、にこやかに彼が来たことを覚えています。

しかし私が真剣な面持ちで話し始めたことで彼も事態を察します。

裏切られたような悲しい気持ちから別れを決めて来た私は「もう会わない」ことを彼に告げました。

私のアドレスも全部消して欲しい、と。

彼のガックリ気落ちした表情は私に罪悪感をもたらしました。

「もう全部決めちゃったんでしょ?!」と最後に彼が言っていました。

そうでした。私は別れを決めていました。

悲しそうな顔と彼を置き去りにしたベンチでちらりと見えた彼の後ろ姿。

もう私にできることなんてない。

そう思い立ち去りました。

桜が咲いていたかも知れません。

切なくて綺麗でした。

数日はやり切った感が強く、これで良かったと思っていました。

ところが、私は別れてから自分が思っていたよりも彼を好きだった事実に気がついていくのです。

自分の人生から切り離したはずの「彼」。

しかしその「彼」の「影」が私の心に深く残っていくのです。

「会いたいなぁ」

「なぜこんなことをしてしまったのだろう」

「彼は悲しんでいないだろうか?」

などなど想像を絶する苦しみを味わいました。

私から別れを切り出したのに、少しでも好きになった人を振るのって自分の腕を引きちぎるような痛みを伴うのですね。

この時、別れを告げる側の苦しみを初めて知りました。

しかし彼といても彼を救うことは私にはできないとも感じます。

別れるしかないのは間違いありません。

ただ元気が全然出ませんでした。

私はある日「心が風邪をひいている」ということに気が付きます。

夜な夜な彼を恋しく思い涙が溢れ、明らかに自分は落ち込んでいるのです。

そこで人生で初めての「カウンセリング」を受けることを決意します。

精神のプロみたいな人に話を聞いてもらいにいきました。

彼と別れて3ヶ月くらいは経っていました。

この落ち込みは一体何なのか?なぜ別れたはずなのにこんなにも悲しいのか?

カウンセリングの先生によると、人間の感情の「喜怒哀楽」の「喜」と「楽」は人に表しやすい感情である。しかし「怒」と「哀」の部分を人はなかなか見せることができない。「怒」と「哀」を過度に自分の中に抑制すると人は元気になれない。本当は彼に「怒」と「哀」の部分をもっと出しても良かったのかも知れない。なるべく「怒」と「哀」を封じないで、もう少し表現していこう。

というものでした。

自分の苦しさの原因が少しずつ見えて来ました。

別れを決めるまでに私は相手を好きだったからガッカリして、悲しくなって、怒って、その怒りと絶望から相手を振るという行動に出たのですが、根底はやっぱり好きという感情があったのです。

別れを決めるまでのプロセスを一切相手に見せずに、さまざまな感情をある日飲み込んで彼に別れを告げてしまったのです。

本当はもっとみっともなく、いざこざを彼とすれば良かったのかも知れません。

大人の振る舞いとか考えるのもいいですが、好きだったから「怒ってる」「悲しんでる」これももっと伝えあって良かったのかも知れないですね。

このカウンセリングをきっかけに徐々に彼との別れを受け入れられるようになって来ました。

それでも半年以上悩み続け、悲しみ続けようやく前を向くことができるようになったのです。

好きだった人や物から離れるというのはものすごく苦しい事です。

私は振った側なのにこれだけ苦しみました。

それだけであなたは「別れる」という「労力」をかけてもらえるほど相手に愛されていたと言えます。

「別れる」は愛ゆえの行動、お互いがもっと良い人間になるため、試練をプレゼントされているのかも知れません。

少しでも好きになった人を振るのが辛くない人はいないでしょう。

割れたお皿双方に痛みを伴うのが「別れ」なのだと知りました。

「別れ」をプレゼントしてくれた相手に今すぐでなくてもいいのでいずれ感謝できる時も来るでしょう。

人生でもっと自分と合う人に巡り会うため、「別れる」からまた「出会う」ことができます。

「振る」経験も「振られた」経験もあります。

今はどちらの経験も「いい経験」として自分の中で昇華している気がします。

どちらも辛いのですが、私はこの経験から人に振ってもらう方が楽に感じ、これ以降ぐずぐずの関係になろうが自分から「別れ」はあまり切り出しません(笑)

正直「別れたい」と思っている時に「別れよう」と言われるとその時は泣きますが、その後の回復が割と順調にいきます。

本当に人の心は不思議です。

「別れ」をプレゼントしている側の方が案外ずっと相手を好きででもお互いのため「別れ」を選んでくれてるのかも知れないですね。知らないけど(笑)

みなさんに良い「別れ」が訪れ良い「出会い」につながりますように。









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