文章を読む能力と書く能力

 今日の昼にネット記事を読んでいたら、「若者の論理的に文章を読み解く力が明らかに衰えている、文章を文章そのままに読むことが出来ない若者が増えている」という内容の記事を見かけた。中高生に簡単な論理的文章を読み解かせる問題文を何題か出題し、それをただ正確に読めているかを選択形式で答えさせる、という調査なのだが、中高生どちらも60~70%の正答率だったという。
 この記事を読んで文章を読む能力が低いということはもう前から知っていたのだが、それと同時に書く能力も低くなっているように思う。「テーマを何か与えられて、そのテーマについて1000字で文章を書け」と言われたら一体どれくらいの人がこれに直ぐに対応できるだろうか。


 文章をこうして書くようになって思ったのは、文章を書くには文章を読み解く力が不可欠だということ、文章の構造が分かっていないのに文章構造のしっかりとした文章を書くことは出来ないということ。自分もこの問題に直面していたことがあって(今も直面しているが)、そういう時自分は、何でも良いから本を読み返してみる。たまには声に出したりもして簡単な文章の構造を頭に叩き込むようにしている。
 他者を意識して書くことに気を付ける様になってからは小説などを除いて、論理的構造を意識するようになった。人は読みやすい、分かりやすい文章でないと読んでくれない。読んで貰えないと書いてもあまり意味が無いという悪循環に陥ってしまう。少なくとも自分にとって1000字を超える文章を書くことは内容さえ考えなければ造作もないことだし、苦痛にも感じることはない。 だけど書いていてこの文章の何が面白いんだろうとは良く思う。
 それでは面白い文章がどういう文章なのかと言うと、「自分に以前から潜んでいて、それでも言語化できなかった部分を代弁してくれた文章」だと思う。若しくは「自分に何か新しい視点を付与させてくれる文章」だと思う。どちらにせよ書き手の頭の中にあるものを正確に書きだすことが出来なければ面白い文章は書けないと思う。
 後は読みやすさだ。口当たりの良い文章と自分は勝手に読んでいる。口に出した時に何処か気持ち悪さを感じさせない文章のことだ。そこに気を付ける時には句読点や濁点の場所、改行のことまで考えないといけなくなってしまう。人は黙読している時でも無意識に口当たりを意識しているものだと思う。  口当たりが悪いと酷く読み心地の悪い文章になってしまう。
 大きく文章には二通りある。論理的な文章とそうでない文章。論理的な文章の方が簡単に書くことが出来る。逆にそうでない文章を書くにはまた違った能力が求められる。小説や一部のエッセイなんかはそうでない文章だと思う。     エッセイは基本的に語り口調の方が親しみやすいのか読んで貰いやすい。例えば田口ランディさんなんかがそうだ。彼女の文章はとても分かりやすい。わかりやすいだけで無くとても親しみやすくて、目の前で彼女が話をしている様だ。自分はああいうエッセイがとても好きだし書き手の人柄を想像させるような文章が好きだ。そういう文章ではあえて論理的構造を崩して書くことがある。わざと読み手に想像をさせる余地を作るためだ。全てを書き切らない、浮世絵には一色抜くという言葉があるが文章にもそういう側面がきっとあるのだ。だがこの一色抜くことがとても難しい。何が必要で、何が必要で無いかは自分にはとても見極められない。いつも何かが足りないと書いていて思う。
 

どちらにせよ自分は文章を通すことで頭を整理する質の人間なのでこれからも文章を書いていくだろうし、きっとこれからも躓いて書けなくなることが出てくる。それでも自分の過去の文章を読み返して見ると、少しずつだけど読みやすくなっているし、まともな文章らしくはなっているように思う。多分自分にとって一番合った思考方法なのだ。兎に角文章を読んだり書いたりすることが好きなので色々試しながら書いていきたい。目標としては公募の小説を書いていつか入賞すること。いつの日か、いつの日か花よ咲くように。

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