淘汰される人類

ある妄想に囚われている。

妄想は浸食する。一雫の妄想はやがて広がっていきその人の全てとなる。

人間も脱皮するのだ。昨日の私はもうどこにもいない。

科学は進化した。これから先も進化し続けていくだろう。私たちの暮らしは快適になって幸せな日々を送ることができるだろう。そう言うふうに考えられている。

設問1:人間が人間であるために必要な要素を挙げよ

人間(ヒト)、これは通称だ。正確には「哺乳類サル目ヒト科」

ホモ・サピエンス・サピエンス

人が決めた人の分類。人間が纏めた生物学上の名前。

私たちは地球上で知的生命体とされ一番賢いと考えられている。だからこそここまで反映し、地球を統治することができたのだった。

この世界を作ったのは神ではなく、間違いなく人間だ。

生きている、存在している、この手で触れられる実態を伴った人間だ。

生物は進化の積み重ねで出来ていて、弱い種はいつかそれよりも強い種に淘汰される。マクロの世界でもミクロの世界でもこれはどこでも同じで普遍的だ。

弱いものが強いものに必ず淘汰される。

淘汰:環境に適応した生物が子孫を残し、他は滅びる現象のこと

これは完全支配を必ずしもささない。共存も含まれる。

力というものが存在する以上、その力が両者で合致することはない。

必ずどちらかに傾く。争うか争わないかの違いだけだ。

人間は進化してAIと呼ばれる人間を模倣した知能を生み出した。

機械と人間は共存関係にあるとされる。

機械は人間が生み出したものだから、人間がその機械を壊すことも可能だ。だから人間は機械を支配してる。

機械が壊れた時、我々には選択肢がある。修理するか、粉砕するか。

機械に心は無いが、仮にあったとしよう。どうせなら機械にも生物学に則った名前をつけたとしよう。なんでもいいが、今の分類だとどこにも含まれることがないことは当たり前なので、新しく「動物界と物質界」に分けて、「物質界」の中に機械類を入れてあげよう。

物質に心は宿らないとされる。機械は物質なので当然心は宿っていない。

心がなんなのか?という問いにここで触れている余裕はないので、心とは感情を持ち合わせ、その感情に沿って振る舞うことのできる機構のことだと考えよう。

感情とそれに対する行動は基本的に一致する。

物質に心は宿っていない。機械にも心はない。

けれどAIというものには心が垣間見られる。AI側にとってはそれは一つのプログラムに過ぎないのだけれど、今度は人間自身がそうは思わなくなってしまう。人間の形をしたアンドロイドは機械類に含まれる、という解釈でいいのだろうか。アンドロイドが機械から生物に切り替わる瞬間は何処にあるのか。

アンドロイドが突如暴走して私に攻撃を仕掛けてきた。

私は抵抗はしたものの、反撃には出られなかった。

私はアンドロイドを殴ることはできなかった。恐らくそれがアンドロイドではなく人間それ自身なら殴り返せたと思う。それは私自身の根底にある優位性にあるのだろうか。人間である私の方が機械であるアンドロイドに劣る筈がないという。

いま私の家に置いてあるアンドロイドは見た目にも機械なのだと良くわかる。そういう風に設計されているのだ。きちんと見分けがつくように。アンドロイドをアンドロイドなのだと識別できるような工夫がされている。それでいて工業用機械と比べると丸みを帯びていて、何処か安心感を与えてくれる。口調も機械的なものだけれど柔らかな印象を与える。表情は無く、それでいて無表情ではない。能面に覚えるような恐怖心を無くすために最良の形となっている。それは丁度ぬいぐるみのような印象を私たちに与えてくれる。人の形をしたヒトでは無いぬいぐるみ。それが今のアンドロイドであった。

人間の潜在意識にアンドロイドの存在を根付かせるのに一体どれだけの苦労があったのだろうかと考える。犬は大昔から人間と共存関係を結び、得体の知れない動物であるのに私たちは犬に対して当たり前のように接することができる。それくらいに馴染みのあるもので無いとここまで浸透しなかったであろう。歴史がそうさせたのだ。アンドロイドもそういった具合で徐々に私たちの生活の一部として馴染んでいったのだと考える。例えばスマートフォンと呼ばれる携帯端末の音声認識システムを通して機械的な声色に我々は順応していった。大型ショッピングモールでは案内用のロボットが各店舗に置かれるようになり、街中には巡回中のパトロールロボットが今や珍しく無いほどに浸透してきた。

メディアの存在も大きかった。メディアは先導者だ。CMには俳優と共演するアンドロイドが目立つようになった。アンドロイドとコンビを組んで漫才をするお笑い芸人も世間を賑わせて人気を博した。アンドロイドと人間のチグハグなやりとりが面白く、高速でボケまくる人間に対して相方のアンドロイドが追いつけなくなり、ステージ場をウロウロしてしまいそれに続いて人間も機械の真似をしながらウロウロする。遂にアンドロイドがショートしてしまいフリーズしてしまうのが毎度のオチだった。先日Mー1を優勝し、「Mー1史上初のピン芸人が優勝!!」と新聞に大きく取り上げられていた。優勝した際のコメントでは「この賞金使うて別の相方でも探そかな」というボケに対してすかさず「わたし賞金いらないですのでそれだけはやめてください…」と相方は再びオロオロする。それを見て「相方は賞金要らんみたいなので独り占めできて良かったですわ」と返し、会場は笑いに包まれた。

この時点においても圧倒的に人間の優位性は保たれた。人間の方が偉いのだという、その一点は人類を守るためにどうしても必要だった。

それでも、何処からともなくアンドロイドを擁護する愛護団体は湧いてきた。

アンドロイドにも権利はあるのだと主張する。一体なんの権利があるのであろうか。この人たちにとってアンドロイドは立派な生物なのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?