幸せの定義

これはなんだか書いていて胸が詰まりそうなタイトルだな。僕はこれを書く前からなんとなくそう自覚していた。幸せになりたくない人なんてきっといなくて誰しもがそれを渇望しているのだろう。でも誰しもが幸せを感じているとはとても思えない。なんて言ったってこんなにも漠然とした存在なんだもの、もしかしたらみんなの望みなだけであって存在しえないものなのかも知れない。それでも僕たちはそれを渇望する。その為に死んでしまったりもする。

自分にとっての幸せはなんとなくもう思い描いている。就職して、安定した収入を得て、恋人もいること。つまらないかもしれないが今の自分にはもったいないくらい幸せなことだ。少なくともどれ一つとして今の自分には無いものだ。でもそんな条件をとっくに満たしている人もいて、そのどの人たちも幸せかと言われたらそうでもない気がする。そういう時つい自分なんかは贅沢だな…なんて思ってしまうがそんなのは僻みでしかない。もしかしたら幸せにもレベルがあるのかも知れない。過去の自分からすれば今の自分はうらやましい程幸せなのかも知れない。過去の自分にとっての幸せはただひたすら自由であることだった気がする。親元から離れて自分の力で生活すること。欲しいものを自由に買って、親に咎められることなく自由に好きなものを好きなだけ食べること、行きたい場所に自由に行くこと。とにかく自由を渇望していたように思える。思い起こすと小学生の頃から僕は自由になりたいと口にしていた。とにかく僕は一人で生きたかったし、親元を離れたかった。その時の自分からすれば今の自分はきっと羨ましいし、幸せそうに見えるのかも知れない。僕は今のある程度の自由を得るために十年以上の月日を要した。過去の自分からすれば十年越しに幸せを手にしたわけだ。とんでもない話だ。自由を手にしたらしたで苦しい事だらけだ。昔なら両親が支えてくれていたことも今じゃ全て自力でやる必要がある。自立しなくてはそもそも生きてさえいけない。

幸せは手に入れた瞬間に最早幸せではなくなるなら、幸せは現実には存在しえないことになる。そんな存在しえないもののために僕たちは死ななくてはならない羽目になる。

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