悪人の命は…

 例えば今日誰かが人を殺してしまったとする。例えばと言ったが、きっと今日だって誰かしら、誰かのことを殺してしまっていると思う。だからこれは割と現実性を帯びたものになりうる。そうだとする。

 自分は昔からこの思いが強いのだが、「自分は犯罪者に強い興味がある」。無論罪を犯すことに賛成を示している訳ではないし自分が何かしらの罪を犯したわけではないことを自身の名誉のために主張したい。

 例えば誰かが複数人の命を殺人という形で奪ったとする。きっとその人は死刑制度のある国では死刑になるだろう。複数人の尊い命を自身の都合により奪い去ったのだから。

 例えば戦争が起きたとする。戦争のさなか味方を守るために百数人の敵国の人間の命を奪ったとする。おそらくその人は祖国で英雄となるだろう。誰も彼のことを人殺しの大犯罪者とは思わないだろうし、詳しいことは分からないがその人は法的にも罰せられず寧ろ守られるに違いない。

 例えば両親からとんでもない虐待を受けていた人が居たとして、どうにも耐えられなくなってその両親を台所の包丁で殺してしまった人が居るとする。

 どの場合であっても誰もが誰かしらを殺している。でもそのどれどれもその結果に至るまでの過程が違うし結果も違う。ひとえに死刑と言っても勿論過程は全て異なる。明らかにこれは死刑だろう、死刑でないとおかしいという人もいれば、曖昧な境目に居るんだけれどギリギリ死刑になってしまった人だっているだろう。年齢も性別も様々で家庭環境も生い立ちも皆異なる。

 遺族のことを考えるとどうにもいたたまれなくなる。ただ自分はどうしても悪人だから殺しても良い、殺されてしかるべきだ、という考えがどうしても受け入れがたい。「人を殺したのだから、殺されてしかるべきだ」これならまだ少しわかる。でも現に誰かを殺めておきながら死刑とならずに生きている、生かされている人は多くいる。だったらどういう条件をもって「殺されてしかるべきだ」となるのだろうかと昔から疑問に思っていた、と言うよりも単純に腑に落ちなかった。

 これが死刑制度の厄介なことなのだろう。神様が裁きでもしない限り恐らく誰もが腑に落ちることが無い。神様が裁いたとしても腑に落ちないかも知れない。誰かにとっての悪は、誰かにとっての正義かも知れない。誰かにとっては死すべき敵であっても、違う誰かにとってはかけがえのない唯一の味方かも知れない。

 だから自分は単純にそうなった経緯を聴きたいし、知りたいし、感じたい。勿論そんなことは自分には出来ないしする権利も無い。でも自分はたとえ許されることの無いような罪を重ねてしまったとしても、それでも一人の人として向き合ってみたい。事実が変わることは無い、過去は変わることは無い。でもその先、は変わるかも知れない。

 ただ一言の「死刑」だけで自分は終わらせたくは無い。

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