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愛膿(短編小説)

 
 
 彼氏が久しぶりに家に帰ってこれたと思ったら玄関で盛大に吐いてわたしは絶叫。
 それがゲロじゃなくてニキビの汁みたいなやつで大量で臭すぎて絶句しつつ、なんか彼氏にやばいこと起きちゃってるのはわかるので救急車を呼ぶ。
 深夜の病院で医者は言う。
「ストレス性膿吐症です。ストレスで心身に毒素を溜め込んだ結果、そういうことが起こる方もいらっしゃいます」
 わたしは訊く。「治りますか?」
「医療としては、薬で症状をおさえることは可能ですが、根治となりますと、ストレス源を遠ざけて安静に生活をするほかありません。逆に言えば、それを心がけていれば基本的には治る病気です。ですが、治ったあとにまた過度のストレス状態に陥りますと、再発するでしょう」
 とりあえず錠剤をもらう。二週間ぶんなのに高い。彼氏も同じことを考えたんだろう、帰り道で、ごめん、と言った。
「大丈夫だよ」とわたしは言う。「バイトの時間、増やせばいいから」
「本当にごめん」
 なおも謝る彼氏に、気になるよなそりゃ、とわたしは思う。わたしも彼氏も中退した大学の奨学金を返さないといけないし、去年よくわからず使っていたリボルビング払いも残っている。これ以上増やすとなれば、いよいよわたしに余暇がない。彼氏は家に帰ってこれるのが珍しいくらい働いていて、でも残業代は出ない。どころか給料がちゃんと出ないこともある。
 明らかにその職場がストレス要因なのだけれども、しかし逃げることができないのは、彼氏はいままでの二年間で辞めた人がみんな、辞職までの引き継ぎ期間で凄絶な目に遭わされているのを見てきたからだ。辞職後にも嫌がらせの電話やポスティングがどこからともなく届いて引っ越しを余儀なくされる、という話もあった。
 楽になるために逃げるより、苦しみながらそこにいるほうが、まだマシだと思わされてきた――話で聞いているだけでも、無理強いができる通過点ではなかった。ゆっくり壊れていくか、一気に壊されるか。
 それでもわたしの稼ぎがもう少しあったら、そんなことは大丈夫だと胸を張って言えたかもしれない。でもわたしも、そう高いところでバイトをしているわけじゃない。もう少し都会のほうに引っ越せば時給が高いらしいけれど、えてして家賃も高い……。
 足踏みをしてしまうくらい切迫した状況で、薬代を用意しないといけないのだ。わたしはもっと働かないといけない。
 一緒に住んでいるのに全然会えてないしデートする暇もスキンシップも二年間ほとんどないけれど、それでもわたしは七年前の高校一年生の頃からこの彼氏が好きで、元気になってほしい、支えなきゃ、って思う。
 
 
 わたしは週に一日設けていた休日を撤廃してそこにバイトを捩じ込む。
 シフトが都合よく埋まっていない場合は日雇い派遣に飛び込む。運動部だったから台車で運んだり積んだりはギリギリできる。筋肉痛が積み重なるけれど、だからなんだというのだ。
 やるしかないなら、やる。
 彼氏は用法用量を守って薬を服用し続ける。毎食後にきちんと飲んでいるようで、予定通りのタイミングで薬が切れそうという報告をチャットで受ける。
 わたしは代理人として薬局に行ってどうにか頼み込んで処方をしてもらう。会社に届ける。
 薬はきちんと効いて、彼氏は膿を吐かずに暮らしていた……と思いきや、ある日、会社のトイレで吐いてしまう。寝不足がたたってか大きいミスをしてしまい、手酷い人格否定と罰を受けたらしい。
 ストレスで症状が悪化するのだ。
 医者にそのことを伝えて強い薬をもらえないか訊く、とわたしがチャットで言うと、それはやめてほしい、とレスポンスがくる。
 あんまり外に自分の労働環境について教えると、ひょっとすると迷惑をかけるかもしれないから、と。
 ドクターストップがかかったら、それを引き金に嫌がらせが始まるということはあるだろうか。……ありそうだ。
 彼氏は言われていた量より多めに飲むようになる。そうなると減るのが早くなるんじゃないの、もらいにいくペースが早まるとばれちゃうんじゃないの? と訊くと、ばれないように頑張ってほしい、と言われる。
 とにかくペースが早まるということは給料日から給料日までの間にかかる薬代が増えるということで、わたしはさらに働くことにする。日勤後の日雇い夜勤を導入する。週に一度くらいならできる、と判断して。
 実際にそれはできる。頑張ればどうにかなるもので、わたしは日中に動き回ったあと夜勤の倉庫で動き回ることができる。
 週に一度、日中と夜勤派遣で十六時間くらい働く。それぞれ休憩が一時間ずつあり、交通費の節約のため歩きで帰るから家についてから出勤までが三時間くらいになる。でも週刊連載の漫画家とか同じくらいの睡眠時間だと聞くし、慣れれば大丈夫だろう。
 日払いで一万円くらいもらえるから、そのおかげで薬代が間に合う。
 よかった。
 とはいえ生活習慣の変化からわたしまで体調を崩してしまっては元の木阿弥なので、少し自分の体調を顧みてみる。
 そういえば先々月も先月も生理が来ていない。
「妊娠をしています。八週目です」
 と産婦人科の先生に言われて、は? と思う。
 妊娠?
 たしかにそれくらい前にスキンシップはあった。でもゴムはつけていたのに? 低確率が当たったの?
 家に帰るまで色々なことを考えて、とりあえずおろさなきゃ、と結論づける。こんな状況下で出産だの育児だのなんてまずもって不可能だし、わたしも彼氏も幸せじゃないのに、幸せにするべき赤ちゃんを迎えるなんて失礼じゃないだろうか。
 別の女の人のお腹に宿り直したほうがいいだろう、この魂は――なんて思いながらお腹を擦っていると、ほろほろと涙が出てくる。
 わたしに子供を授かっていいタイミングなんていつ来るんだろうか。わたしの人生に、彼氏の人生に、そういう裕福とまでは言わずとも、頑張ればどうにか、と踏み切れるほどの余裕が生まれることなんてあるんだろうか。
 どうしてこんな人生でどうしてこんな運命なんだろう。どうしてこんな社会でこんな状態になっているんだろう。
 なんで好きな人との子供ができて、おろすしか選べないような袋小路に入ってしまっているんだろう?
 泣きながらとりあえず中絶の費用について調べる。ヒットした金額を見て固まる。
 二十万?
 十二週目に入る前にやらないと二倍以上?
 今日、八週目と言われたから、猶予はギリギリ半月くらいだろうか?
 ……働かなければならない。
 わたしは夜勤を毎日入れることにする。不幸中の幸いというべきか、悪阻が全然ないから働くこと自体はどうにかなる。三時間睡眠の日が連続すると、だんだんそれに慣れて起きやすくなってくる。
 もちろん疲労は溜まる。ストレスもある。わたしも膿を吐くようになるんじゃないかと思ったが体質的にそうはならなさそうで、代わりに一日中目が霞んだり急に泣いてしまったりする。動いているのに食欲がなくなってくる。食べてないのに吐き気がする。何もないのに笑えてくる。
 これにだって慣れないといけない。
 わたしと彼氏の人生のためだ。
 そうこうしていると彼氏の薬が切れる。昼休憩の間に薬局に行って頭を下げて、会社に届ける。受けとるとき彼氏が、明日の夜にはいったん帰れるかも、と言う。
 うれしい。
 ちなみに彼氏には妊娠の連絡はしていない。ストレスを増やしてはいけないし、彼氏にいま以上の何かができるわけではないから。
 昼の職場にギリギリで駆け込んで午後の労働を始める。
 今日はやけにクレーム対応が多くて呂律が回らなくなりそうなくらい削られていくが、どうにか終えて、夜勤のほうに行く前に制服を着替えていると、エリアマネージャーから心配される。見た目に疲労が見えていたのだろうか。
「休みが足りてないんじゃないですか?」
「大丈夫です。慣れ、なんで」
 夜勤の職場に向かう。少し頭がぼうっとしていて、すれ違いざまに知らない男に胸を揉まれてもすぐに怒ったり叫んだりできなくて、というかそういうことが起こったという事実に気づいた頃には男はどこにもいなかった。警察に通報してる時間はない。職場は遠い。わたしは働かないといけない。
 到着する。眠い。でも派遣で居眠りなんてしたらもう応募しても選んでもらえなくなるから耐えて、ひたすらに倉庫を駆け巡る。段ボール箱を足の指の上に落として悶絶しながら、いい気付けになったと思う。誰も見ていなかったし、割れものでもなかったからささっと戻す。
 何やってるんだろう? わからない。
 わたしは何をどこに運べばいいかだけ自分の足の下にレールを敷くような気持ちで定めて往復する。
 仕事が終わる。喉がひどくかわいていたから、帰路にある公園の水道で潤す。明け方で、誰もいない。わたしはベンチの上に座り、少し休むつもりだったけれど眠ってしまう。夢のなかでわたしは会社員で、彼氏と一緒に出勤をするが、知らない間に彼氏は見知らぬ男になっていて、段ボール箱を洗い場に運び込まされる。その間ずっと胸を触られている。
 携帯電話の電池は切れていて、目覚まし時計は家にある。
 目が覚めて、公園の時計を見ると夕方で、寝坊した、と思う。今日は昼も派遣のほうで、初めてのところだから地図を見ないと場所もわからない。
 とりあえず携帯を充電するために家に帰る。
 動かせるくらいの電池が溜まってから確認すると、無断欠勤として処理されたのか、登録されていたシフトがなしになっている。同じ派遣サイトで登録していた十日ぶんの夜勤シフトも削除されている。
 信頼を失ったのだ。
 わたしは枕に顔を押しつけて泣く。それから、昨日された痴漢も思い出して傷ついて、叫び声を上げながら壁を殴ったつもりだったけれど実際に殴っていたのは窓で、ヒビが入る。
 修繕費がいくらか考えようとして、中絶費用とか奨学金とか支払いとか色々と頭のなかでごちゃっとなって、わたしはもう身体が動かなくなる。
 なんで?
 なんでこんなことになっているんだろう。わたしが何をしたっていうんだろう。彼氏が何をしたっていうんだろう。なんの罪で罰を受けているんだ?
 どうして、どうにか、どうやってでも生き延びようとしてるのに上手くいかないんだ?
 どうして幸せになりたいだけなのに?
 どうしてこうなっちゃったんだろう。
 ……ということを考えているうちに夕陽が射していて、休憩中の彼氏からメッセージが来て、あと三時間残業すれば帰れそう、と伝えられる。
 そっか。よかった。
 とりあえずそれで身体を動かせるようになる。止まっていたってしょうがない。ちょっと掃除とかして、晩ごはんを用意しよう。派遣サイトはまた別のを登録すればいい。
 その前にトイレ。
 で、トイレの電気スイッチを押しても暗いままで、電球が切れたんだ、と理解する。スペアはひとつ買ってあったはず、と探してすぐ見つける。
 天井は高くて、わたしの身長は低かった。雑誌を積み上げて、背伸びをして電球を嵌め込もうとする。
 すべる。
 後ろ向きに倒れる。
 わたしは開けっ放しのドアの向こう、玄関の床に後頭部を打ち付ける。
 死ぬ。
 わたしが何をしたっていうんだろう。
 
 
 幽霊になる。何もできない。
 二回ほどインターホンが鳴って、それから錠が下ろされる音がする。彼氏が帰ってくる。玄関で電球を片手にアホみたいにぶっ倒れているわたしを見て駆け寄って、呼吸も心臓も停まっているのを確認して、彼氏は吐く。
 膿を吐く。
 膿を吐く。
 膿を吐く。
 吐く。吐く。吐く。
 吐く。吐く。吐く。吐く。吐く。
 吐く。吐く。吐く。吐く。吐く。吐く。吐く。吐く。吐く。吐く。吐く。吐く。吐く。
 吐く。
 止めどなく吐き続ける。廊下を満たしてわたしの後頭部を汚してもまだ吐いて、三和土に流れ込んでプールみたいになってもまだ吐く。涙もとめどないが、膿はそれよりも滝のように彼氏の口から出続ける。
 嘔吐された汁に1DKが浸って、じんわりじんわりと嵩を増していく。窓のヒビから漏れるんじゃないかと思うけれどそうはならず、ただただ水位を上げていく。
 そんなにストレスなんだ、とわたしは思う。わたしを喪うことが、そんなにも。
 日付が変わる頃には膿の汁は彼氏の身体よりも水位を増している。わたしは彼氏がもう溺れ死んでいることを察するが、彼氏の遺体はどうしてか膿を吐き続けているみたいで、やがて天井から眺めていたわたしのことも包み込む。水位は天井に達する。
 彼氏のストレス汁のなかでわたしは彼氏の魂と出会う。
「おかえり」
 とわたしは言う。
「ただいま」
 と彼氏は言う。
 それからわたしと彼氏の魂はひとつになり、ふたりぶんの霊力で膿汁を操る。
 窓のヒビを圧し割ってアパートの外に出る。
 どこかの側溝から流れたりしないように慎重に、アパートの一室ぶんの大きさの黄色いスライムのように形をかためながら、地面を這いずる。
 スライムのなかには、わたしと彼氏の遺体が寄り添うように浮いている。
 かわいいね。
「どこに行こっか。病院とか?」
「会社に行こう」
「どうして?」
「まだ人が残ってるから。それに、濡れちゃいけないものたくさんあるから」
 いいね。
 夜のアスファルトを明かりを頼りにわたしたちは進む。スライムのなかで彼氏の遺体がいまもなお吐いていて、体積はさらに増えていく。
 会社に着く頃には、そこらの家屋より高くなっている。明かりのついた窓から侵入する。スーツを着た人たちが悲鳴を上げている。書類もパソコンも呑み込んで、薙ぎ倒す。彼氏の意思がスピードを上げていて、もうまるで津波のようになっている。取り込まれたパソコンが鈍器のように人を襲い、ガラスを割り、破壊を進める。
 オフィスのすべてを呑み込んでビルを出る。
 道路に全部置いていく。
 動かない見知らぬ人間たちも。
 うん。
 わたしたちの世界にはわたしたちの遺体しかいらない。
 高笑いする彼氏は二年ぶりくらいに心から楽しそうで、わたしもたまらなく楽しくなる。
 膿スライムの大きさは一棟のビルほどになっている。これなら会社だけじゃなくて、全部めちゃくちゃにできそうだ。
「次はどこに行こうか」
「駅のほう。一昨日なんか痴漢されたから」
「え。許せん。滅ぼす。でもそれなら市内全域をめちゃくちゃにしてったほうがちゃんと殺せる確率高くない?」
「たしかに。それで行こうか」
 彼氏がわたしの被害にがっつり怒っているのが魂から伝わってきて嬉しい。大好き。
 全部めちゃくちゃにしたい。
 全部めちゃくちゃになればいい。
 全部めちゃくちゃにしてやる。
 こんなことになったのも全部、この世界が悪いんだから。
 世界を壊すことができるという嗜虐的な全能感と、彼氏と一緒にいるという官能的な幸福感と、彼氏からわたしへの愛情がこんなすごい怪物を産み出したのだという得もいえぬ高揚感で、どうにかなっちゃいそうなくらい、幸せ。


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