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歴史・人物伝~関ケ原編番外コラム:関ケ原の合戦の布陣を考える

歴史・人物伝~関ケ原編を執筆中ですが、本日は私自身が「関ケ原の合戦の史跡」を旅行した時に感じたことを書きます。

関ケ原を歩いてみる

私が関ケ原に降り立ったのは2000年。今から20年前になります。当時、大河ドラマ「葵徳川三代」が放送されており、関ケ原の合戦からは400年目の節目にあたっていました。

JR関ケ原駅から徒歩で各武将が布陣した史跡を巡りましたが、かなりコンパクトにまとまっている印象でした。裏を返せば、狭い範囲の中で壮絶な戦いが繰り広げられたということになります。

北西部の石田三成布陣の笹尾山は、関ケ原が一望できる場所にありました。案内図を見ると、家康方の東軍を、西軍が覆うように陣を張っていることが分かります。後方には毛利勢らが布陣した南宮山も見えます。

三成の盟友だった大谷吉継の陣は、関ケ原から西へ向かう狭い谷間だったことも分かりました。かつて不破の関があった交通の要衝であり、そこに最も信頼する吉継を配置した三成の意図がうかがえます。

西軍有利の布陣だったが・・・

現地で入手した陣形図(武将名は私が入力)は、地形や今の交通網が書かれており、旅行から帰ってきた後も随分参考になりました。

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合戦の布陣について有名な話があります。明治時代に軍事顧問だったドイツの軍人が、布陣図を見て即座に「西軍の勝利」と言ったそうです。つまり、西軍有利の布陣だったことは明白でした。

ところが、史実では「東軍の勝利」となっています。家康は、どのようにして関ケ原の合戦で勝利を収めたのでしょうか? そのカギとなる人物たちについて、歴史・人物伝~関ケ原編の続きで書いていきたいと思います。

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