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夏の終わりのラピス色/Ultra-marine blue

いつの間にか、恋というものはなにかと引き換えでなくてはならなくなってしまった。

たとえば本を読んで過ごすしずかな土曜の午後とか、女の子たちとの美味しいタイ料理とか、星形のパーツでカシオペヤ座を描く、私だけのロマンティックな指先とか。

ありったけの楽しくかわいいものを差し出して、やっと受け取ったのは、嵐に荒れ狂う海のような私自身だった。濃い色みをした厚い波がいくつも勢いよく渦巻き、その渦にまき込まれ、深い海の底に沈んで、人をうらやみ憎んで、そんな自分自身にうんざりする、その繰り返し。

私は海でいろいろなものを拾うのが好きだから、嵐のあと何がビーチに残っているかよく知っている。壊れた時計、片方のサンダル、くだけたタイルの欠片、くらげの死体…… それらの片すみに宿った美と孤独は、なぜだか私の胸をしめつけた。恋の残がいも、そんながらくたにちょっと似ているような気がしていた。

でも結婚してから私は、海でなにかを拾ってくることはしなくなった。砂にキラリと光るものがあっても、ものめずらしいと感じなくなったのだ。

ある日、ベランダの隅っこに、砂まじりの液体の入った瓶をみつけた。海水だと分かったのは、潮風がふっと香ったから。

中をのぞいてみると、ガラス玉がひとつ、ウルトラマリンブルーの濃い波にふんわりとゆられている。まるで、きれいな宝石のようだった。

「ラピスラズリ……?」

思わず声に出して、しばらく考えた。二人暮らしなのだから、こんなところに瓶を置いたのは彼しかいない。出張から帰って来たら訊いてみよう……。

それから数日間、彼は帰って来なかった。出張中に猛威をふるった大きな嵐のせいで、たくさんの通信線が不通になってしまったのだ。通信線を管理するのが彼の仕事だから、全部繋がるまでは家に帰るわけにいかない。風がびりびりと窓を震わせ、豪雨があたりを激しく叩いていくのを、私はいつかの苦しかった恋と重ね合わせながら、ひとり家の中で感じとっていた。

いったいどれぐらい大変な作業だったのか、彼が帰ってきたのは次の火曜日だった。

通信線を繋ぎ終えた彼は、

「疲れたから寝る」

といって、さっさと寝室へ向かった。私はその背中を見てホッとした。

ベランダの瓶のことは、そのまましばらく忘れていた。

今度は別のひとまわり小型の嵐が街をかすめ、木の葉たちがさあさあと鳴るような日、カタンと固い音が聞こえてベランダに出てみたら、あの瓶が転がっていた。私は瓶を手に取って振ってみるけれど、液体は凛々しいほどキリッと澄み切って、中にガラス玉は見当たらない。

あのきれいなラピス色の玉は、どこへいってしまったのだろう。

ふと私は、こんなふうに思う。いつかの恋はもう、どこにもいない。あの時人格を変えてしまうくらい激しかった不安や苦しみは、海の底で時間をかけてすっかり極まり、いつしか透明になって、似つかわしい清らかな場所へひとりで移動していったのではないだろうか。

瓶を開けると、秋風のようにヒヤリとした水がとくとくと溢れ、ちいさな川になって流れた。一瞬一瞬がきらめいていた。私たちはこうして自分の中で育つ孤独をすこしずつ好きになっていけるのだと、その光を見て思った。

だから、いつか忘れてしまうあの濃い色を、今できるだけ深く心に刻みつけておこう。生々しくあざやかに生きた己の、泡沫の証として。





#ドリーミングガールダイアリーズ

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読んでくださってありがとうございます。

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