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王女の命令と、いつか片付けなくてはいけないもの

夏の朝、よく冷えた部屋でひとりコーヒーを飲んだりしていると、ソファから手を伸ばしたあたりに、記憶の泡がゆらゆら浮き上がってくる。

湖底にしずんだいくつかの宝箱が、ため息をつくように、ぽこぽこあぶくを吐き出している。かつて輝いていたものや、大切だったもの、心地よい感触、忘れたくない人、美しい風景――たとえば結婚式のドレスにゆれるレース刺繍や、アリゾナで見た光、冬の夜の、毛羽立った毛布のあたたかさ――私の人生に何らかの良い影響を与えてくれた、すてきな記憶の断片たちだ。

やわらかな泡をカギの形に曲げた指で受け止めると、泡はしゃらしゃらとくずれて散らばって行く。

しばらくそんな空想の遊びを続けていると、一つだけ特別な箱があることに思い当たる。おもてに貼り付けたポストイットには、「いつか片付けなくてはいけないもの」。

一瞬、砂嵐のような雑音が混じって、息が止まる。そして、ゆっくり何かを思い出す。

私はカナダのカフェにいる。

どのカフェだろう、目を閉じて記憶の底をしばしうろつく。

人々はゆったりコーヒーを飲んでいる。窓の外は眩しい日差しが、行き交う車の表面に次つぎとすばしこい銀色の光を走らせる。静かな雰囲気に惹かれて何度か通った店だ。

窓の外から手元に視線を戻すと、私のちいさな文字でいっぱい埋め尽くされた一冊のノートがある。当時私は誰に見せるあてもない文章を、ただひたすら自分のために書き続けていた。ちりちりと孤独の音を立てる心をノートに吐き出すと、いくぶん気持ちがましになった。

”Where your dream begins” (あなたの夢がはじまる場所)と内側の縁に書かれたコーヒーのマグは、とっくに空になっている。

永遠に続くようなまどろみから抜け出したくてカナダに来たのに、なかなか変われないでいる。この国にいつまでいるのか自分でも分からなくて歯がゆく、かといって日本に帰っても居場所を見つけられる自信などない。

――Where does my dream begin? 

虚無の宿るマグの底に向かって、ひみつを打ち明けるように私はつぶやく。「私の夢は、どこからはじまるのだろう?」

ふいに視線を感じて顔を上げると、隣の席の女性が私を見つめていた。

「そのノート、良いわね」

どこか王女のような品格で女性が言う。パールのイヤリングがきらりと玉虫色に光る。

「ニホンゴはわからないけれど、そこに『本当のこと』(”the real thing”)が書かれているってことははっきりと分かるの、私」

なんてでたらめな、と思った私は曖昧な表情を返したけれど、その微笑はどこまでも自信たっぷりだ。

「あなた、これ人に見せたほうがいいわよ。だって、とっても素敵なんだもの。国に帰ったら、文章を書く仕事に就きなさい。そして皆をハッピーにしなさい」

彼女はオードリー・ヘプバーンみたいなサングラスをかけ、顎をつんと上げたまま滑るように店を出て行ってしまう。まばゆい夏の交差点に吸い込まれて、それきり見えなくなった。

サングラスの王女さまの言ったことはほとんど預言のようなものとなった。帰国後、働きたかった会社で英語を使う仕事に7年間従事したあと、私はきっぱりその会社をやめてライターになった。留学するほど英語が好きだったはず、だった。でも私はどうしてもニホンゴを書くことがあきらめきれなかったみたいだ。

B罫のコクヨ・Campusノート、10冊。そのノートは今でも「いつか片付けないといけないもの」とラベルを貼った箱に投げ込んである。おそるおそるノートを開くと、何者かでありながら何者にもなれない宙ぶらりんの私が、6㎜間隔で引かれた線の上に、懸命に言葉を並べている。あちこちから借りてきたよそよそしい言葉を、必死でつなぎとめている。

私は深呼吸してソファに座りなおし、ゆったりとノートをめくっていく。そこから何かを読み取ろうとする必要はない。どのページもただ寂しげな文字で、「孤独」と書いてあるのに等しいのだから。

孤独であること。世界のどこにも居場所がない自分の、そのよるべなさに恐れおののくこと。そんなものは初めから無い方がいいのかもしれないけれど、臆病な私にペンを持たせ、書き続ける力に燃料を注いでいるのは、いつだってその孤独に他ならない。

孤独こそ私の夢がはじまる場所だ。いつかすこしでも孤独のない居場所を見つけるまで、書くことで生を全うしたいという決意がはじまる場所。

ほぐれた泡がゆらゆら水面にのぼっていく。

文章を書く仕事に就くことと、皆をハッピーにすること。王女の命令を私は半分叶えた。もう一つの命令は、まだ叶えにいく途中だ。

「いつか片付けなくてはいけないもの」

最後のページを閉じると、その記憶はもう、私の心の中で「片付いて」いる。

うすく積もった埃はやさしく拭われ、やわらかい布で丁寧にくるまれて、然るべき場所にカチリと収められている。

あまい光が湖底に差し込み、宝箱は午睡の夢をみている。私はもうしばらくここに佇んでいる。

かすかに太陽が草を焦がすような夏の匂いと、「すべては夢ではない」と耳元に囁く風の声がしてくるまで。







Being lonesome is exactly the place where my dream begins.  When I close the last page of my notebook, I realize that I already make up my mind to get the princess's orders. It is still on the way, and continues until all of my dreams come true on this lonely lovely planet.  

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読んでくださってありがとうございます。7月はせわしなくてほとんどnoteを書けませんでしたが、先日ずっと連絡をとりたかった人にメッセージを送ることができ、良い8月のスタートを切れたかなと思います。

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