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言いたいことはよくわかった

 『ベアゲルター』のコンセプトとして、著者の沙村広明が〈中二テイスト任侠活劇〉とうたうのは、いかにも彼らしい韜晦だろう。裏表紙には〈叛逆ずべ公アクション〉との惹句が踊る。
 その物語の舞台となる石婚島は主人公・忍の故郷で、かつては漁業を主要産業としていたが、ドイツの大手製薬会社・ヒルマイナ社と大手暴力団・関西慈悲心会ならびに下部組織である躁天会の手によって売春島に改造させられ、経済が潤い、財政難の危機を脱した。こうした関係は、原発を媒介とした中央と地方のそれと相似形をなす。『ベアゲルター』が「震災文学(©️斎藤環)」ならぬ「震災漫画」としてアクチュアルであるゆえんで、被害者性のみに居直ることを良しとしない態度と作品のスケール感は他と一線を画する。
 ことの発端は、ヒルマイナ社の工場の偶発的な爆発事故で、周辺の村・キービッツェンベルグに住む者たちは、除染という名目で隔離生活を強いられ、やがてモルモットとして扱われる。生体実験の結果、特殊な古細菌を含む地下水で育った村民が、製薬会社が開発したファージを摂取すると、悪性腫瘍に対して劇的な効果を発揮する体内細菌を生み出すことがわかる。そして、社の大々的な調査により、その特殊な古細菌を含む地下水が流れる地域が三ケ所発見された。ドイツのキーヴィッツェンベルグと中国の画眉区、日本の石婚島である。花街の娼婦に与えられる高額の堕胎金は体よく胎児を調達するためのもので、中出しのオプション料は二万円と破格だ。自らの感情も意思もあらわしようのない小さな命の数々は、ここではガンの特効薬の材料にすぎない。きわめてグロテスクな二重の搾取の構図にもとづく産業基盤も、あくまで表面上は“Win-Win”の関係にあって、島の振興委員会の会長はヒルマイナ社と一蓮托生である。伊丹万作が「戦争責任者の問題」と題したエッセイで指摘したように、日本人の加害性ならびに他責性は、非自律的なメンタリティに基づいているため、公益を必要以上に重んじる傾向があり、原発などはその象徴としてわかりやすい。以下の引用はコロナ禍における自粛警察の横暴と照らし合わせてみることで新たなリアリティーが得られるだろう。

〈多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。(中略)少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである〉(初出「映画春秋 創刊号」(1946. 8))

 高橋ヨシキが監督した『激怒』のなかで描かれるディストピアはまさにこうしたもので、主人公の刑事・深間を演じる川瀬陽太と対立するのは、主体性を欠いた大文字の奉仕精神を美徳とする「善き市民」たちである。彼ら、彼女らにとっての公益は、安心と安全というそれ自体は全く否定されるべきではない権利だが、実のところは個々の実感と猜疑心とに左右されやすく、定量化は不可能だ。海の水が漂流者の喉の渇きを決して癒すことがないように、平穏な生活は追い求めるほどに手の内をすり抜けてゆき、第三者である観客の目の前では、町の自警団による俗情きわまる魔女狩りが展開される。しかし、ごみ屋敷に住む引きこもりや公園で踊るBボーイをいくら排除しようとも、己れの隣人に他者性を認められない以上、幸せの青い鳥が庭木にとまることはありえない。『イージー・ライダー』しかり、『わらの犬』しかり、言い知れぬ不信感は根拠が薄弱であるほどに強度と持続性を高める。〈国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつた〉という伊丹の嘆き節は、小泉純一郎と竹中平蔵による新自由主義政策がもたらした悲劇の一幕において、より痛切に響くだろう。
 もっとも、深間のホームタウンである富士見町が極度の浄化作戦を推し進めたのは、彼がアメリカの人格矯正施設に送り込まれたのちのことで、それ以前にはナイトピープルにとって比較的寛容な町であった。さながら浦島太郎のような役柄を振られた深間の境遇は、たとえば『解散式』などに顕著な任侠映画のフォーマットに則ってもいて、『ベアゲルター』の作品世界とリンクしている。キーヴィッツェンベルグの隔離研究所から逃れたトレーネもまた深間や忍と同じ「故郷喪失者」であり、特殊加工を施した義手を武器に、ヒルマイナ社経営幹部全員の抹殺を誓う。〈私が共感できるのも私に共感してくれんのもあの女だけよ あれは「同類」なんだ〉という忍のシンパシーには確かなシスターフッドと、そして必然が認められる。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を思い出すまでもないだろう、『激怒』のクライマックスにおいても、深間と共闘するのはいずれも女性であり、ポールダンサーの杏奈には、強権的な町内会長の手によってタトゥーを焼かれ、口を糸で縫われたという因縁がある。従順な産む機械であれと迫り来る男たちに対し、まともな会話も望めない以上、採るべき手段はもうこれしかない。

〈俺は、お前らを殺す。〉

 

 

 

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