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「アンラッキーなカード」があっても

「どうして私がこういう目に遭ったんだろう」と思うことが、たぶん誰の人生にもあると思う。私も今まで何度かあった。今日はこの難題に対して、今の私なりの解答(?)を書いてみたい。

ハマってしまった「なんで私が」問題

直近、私がこの問いにぶつかったのは、前回の記事に書いた子ども時代に痴漢に遭った事件を思い出したとき。この件について、私はずっと「私が自分から死角(集合住宅の階段下。そこに郵便受けがあった)に入ってしまったせいで事件が起きた」と思い込んできた。でも今振り返れば、私は初めからその死角に入る瞬間を見越して、犯人に付けられていたように思える。

そう気づいたことで、私は「自分が事件を誘発した」呪縛から解放されるのと引き換えに、「なんで私が」問題に出遭ってしまった。あの日、当時の女の子の定番だった赤いランドセルを背負い、スカートをはいた私が犯人の視界に入った時点で、たぶん罠にかかったも同然だったのだ。

「人生の中でラッキーなカードを引いたことだって何度もある。あの日は私がアンラッキーなカードを引く巡り合わせだったんだ」。そんなふうに思ってみても、モヤモヤは晴れなかった。もし選べるのなら、他の悪いカードを代わりに引き受けたとしても、あれは避けたかったな……。

不確実なゲームをどうプレイするか

視点が転回したのは、あるネットニュースを見たときだった。松戸市の小学3年生だったリンちゃんの事件から丸7年という記事だ。学校の保護者会長で、登校する子どもたちの見守りをしていた男に連れ去られ、暴行された挙句に殺害という衝撃的な事件だった。

私と同じような年齢で、同じような性癖を持った男に出遭った結果、激烈な被害に遭って亡くなった人がいる――。松戸の事件はもちろん知っていたけれど、当時は自分の体験を思い出す前だったので、そんなふうに感じたのは今回初めてだった。私があの日、犯人に出遭ってしまったのは偶然だったけれど、結果的に軽微な被害で済み、この歳まで生きてこられたのも偶然。巡り合わせによっては、私があそこで死んでいてもおかしくなかった。

ラッキーに見えるカードも、アンラッキーに見えるカードも、私たちは選ぶことはできない。いつ「死」のカードが出てくるかも分からない。不確実極まりないけれど、これはそういうゲームなのだ。

私たちが選べるのは、引いてしまったカードでどうプレイするかだけ。それならどんなカードを引こうと、その巡り合わせに頭を悩ませることはないのだ。短い人生だった人はかわいそうということにもならないのだと思う。

私が事件の数年後に犯人の行為の意味を知ったとき、つい最近「あれは犯罪だ」と気づいたとき、どちらもショッキングな経験ではあったけれど、「ネガティブな経験」だったかどうかは見方次第だ。ポジティブに見えるものも、ネガティブに見えるものも、今ここで、生きて体験していること自体に意味があるのだと素直に思えた。

傷に向き合い、回復させるパワー

40年前の事件を思い出したことは、私に大きな解放感ももたらしてくれた。怖い思いをしたうえに、少し成長した私に責められまくった被害当時の自分に寄り添い、慰めてやれたことで、とても癒された感覚があったのだ。あんな事件があったこと自体長い間忘れていたのに、不思議なことだけれど……。人の心理や犯罪というものについて、改めて思いを巡らすきっかけにもなった。

子ども時代の体験にポジティブな面を見出すのは今でも難しいけれど、少なくともああいう事件が今も頻繁に起きているに違いないこと、被害者の年齢が幼いほど苛酷な体験になり得ることを知ることはできた。そして長い時間がかかっても、人には自分の傷に向き合い、回復させる力があるということも。私は今まだ「突然思い出してしまった」混乱から抜けてきたくらいのところだけれど、いつかここで学んだことを何かにつなげられたらと思う。

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