龍神考(19) ー熊手と水神ー
春日信仰に見えるK+母音とM+母音
前回の「龍神考(18)」では、奈良の春日大社の御祭神と御由緒が、太陽を祀る「日巫女」が降雨の祈りを「云い」、太陽が海を温めて「云(立ち昇る雲)」と風を起こして降雨につながる様を示す一字「靈」=「雨+口口口+巫」、と深い関係があることに気づきました。
〜春日大社御本社(大宮)第一殿〜第四殿と若宮社の御祭神〜
・第一殿=武甕槌命→白鹿(白雲)に乗って御蓋山浮雲峰に降臨した雷神
・第二殿=経津主命→息吹で雲を動かし天気を操る風神、斎主(神職)の側面あり
・第三殿=天児屋根命→天岩戸開き(晴天)の祈りを「云った」神職で中臣氏の祖
・第四殿=比売神=天照大御神→太陽を祀り、降雨の祈りを「云う」「日巫女」
・若宮社=天押雲根命→第三・第四殿の夫婦の間の小蛇姿の御子(蛇行する小川)
さらに大宮の四神と若宮への信仰思想に共通するものが「口」である点にも思い至りました:
・武甕槌命=雷=神鳴り→「神=示+申」、「申」=雷光・口で「申す」の意味
・経津主命=風→風神の口からの息吹、「斎主」=祝詞を(口から)「云う」神職
・天児屋根命=天岩戸開き(晴天)の祈りを(口から)「云う」神職で中臣氏の祖
・比売神=天照大御神=太陽を祀り、降雨の祈りを(口から)「云う」「日巫女」
・天押雲根命=大きく開口できる小蛇姿の水神→雷光のように蛇行する小川
・天岩戸開き→長期滞留する「岩=雲」の「戸=口」が開き太陽が現れる
以上が前回取り上げた共通点ですが、今思えば、川幅が広くゆったり流れる下流より山の中の川幅が狭く細かく蛇行する上流の方が川の音も大きく、その蛇行する小川から聞こえる音に蛇行して走る雷光の音が重ね合わせられ、川の音は川の神が口から発している言葉とも想像されたのではないでしょうか?
すると「靈」の中の、言葉を並べる意味の「口口口」が一層注目されます。
「口口口」を「云う」に置き換えると「靈」→「雲+巫」になり、「靈能力」とは本来「巫女が雲を呼ぶ能力」と考えられます。
そして、龍も風雨、つまり風に運ばれてくる雨雲を呼び起こす存在と考えられたことから、巫を龍に置き換えると「靈」=「雲+巫」→「雲+龍」となります。
さらに「雲」を「雨+口口口」に戻すと、「雲+龍」→「雨+口口口+龍」=「龗(おかみ)」となり、「靈」と同じく「れい」とも読みます。
以上から、「巫女」と「龍」は互換性のある、ほぼ同義か相似系の存在と考えてきました。つまり「巫女」は「龍女」という概念に通じるようです。
龍についての伝承などを見ていくと、龍には女性性、特に母性が強く意識されてきたような印象も抱いています。
そうこう書いていた矢先に春日大社から届いた社報『春日』第111号を開くと、八大龍王の三番目、沙加羅龍王(しゃがらりゅうおう)の第三王女、善女龍王(ぜんにょりゅうおう)が、日本の龍神信仰の起点とされていることも知りました。
ところでこれについて触れた前回「龍神考(18)」に訂正箇所を見つけました:
「龍神考(18)」は「龍神考(17)」の誤りで失礼しました。
さて前回は触れませんでしたが、春日大社が鎮まる御蓋山(みかさやま)にも、またその山頂、浮雲峰に降臨された武甕槌命(たけみかづちのみこと)にも、これまで注目してきたK+母音とM+母音の組み合わせが、「みか」と反転していますが認められます。
「みかさやま」については以前取り上げた、海神の娘=「龍女」であり「日巫女」も連想させる玉依毘賣命を祀る福岡県太宰府市の宝満山も、御笠山「みかさやま」や竈門山「かまどやま」とも呼ばれ、ここにもK+母音とM+母音の組み合わせが認められます。
因みに宝満山に御鎮座の竈門神社は「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれた大宰府(特に大宰府政庁)を守護すべく鬼門に位置しています。
「帝」も「みかど」と読みますが、日本で「帝」と言えば天照大御神を祖とされる天皇です。これまで述べてきましたように、天照大御神を「日巫女(ひみこ)」の神格化とすれば、K+母音とM+母音の組み合わせである「ひみこ」の「みこ」が「みかど」の「みか」に継承されていることも考えられるでしょう。
春日大社は平城京の鬼門ではありませんが、やはり平城京特に平城宮を守る神社としても位置付けられ、大宮の第一殿から第四殿まで一続きに並ぶ社殿は御蓋山の尾根線上に建てられ、その尾根は平城宮に延びていると聞きました。
つまり春日大社の神々の霊威が御蓋山の尾根に沿って伝わっていく、という意識があったことになります。
尾根も蛇行しますので龍蛇に見立てられ、「春日龍神」の霊威の現れと見做されてきたのでしょうか?
その春日大社では巫女さんのことが「御巫(みかんこ)」と呼ばれていますが、ここにもK+母音とM+母音の組み合わせが認められて興味深いです。
また大宮の御祭神について第一殿から第三殿までは「〜命」と申し上げる一方、第四殿だけ「比売神(ひめがみ)」とされるのも、「めが」や「めか」のK+母音とM+母音の連なりが意識されたからではないかと思います。
尤も「命(みこと)」自体にもこの組み合わせは認められますが。
こうしてみてくると、K+母音とM+母音の組み合わせ(反転も含む)が非常に強く意識されてきたことが窺えます。
この意識はもちろん春日大社や福岡の竈門神社だけに限られず、いろんなところに垣間見えます。その中には、これまでずっと取り上げてきた「雲=云」や「神」など普通名詞もあります。
そのようなまた別の一例が「くま」だと思います。
熊手→神手→雲手→龗手→水神手→蛇手?
「くま」と聞くとすぐ「熊」を思い出しますが、特に昨年冬からクマが冬眠せず街中に出没する出来事の報道が相次ぐ中、直立二足歩行もでき、木登りして両手を使って果物などを食べている姿が印象的で、「四つ脚」のうちの前脚はやはり「両手」と呼ぶ方が適切だと感じました。
この点はサルに似ています。サルも「四つ脚」で走りますが、二足歩行もでき、木に登り、「両手」で餌を食べます。
サルは人間に近い存在であることが日本でも古来意識されてきたことは、サルを念頭に置いたサルタヒコノカミが、天照大御神の御孫で人皇初代神武天皇の曽祖父に当たるニニギノミコトの天孫降臨の道案内をされた、という神話にも窺えます。
ならば、サルと同じように四つ脚で走るだけでなく、二足歩行と木登りが可能で、両手を使って食べるクマにも神性が認められていたのではないでしょうか?
クマも四つ脚走行以外は人間やサルと似た動きをすることができるわけです。
それがこの動物に「神(かみ)」に通じるK+母音とM+母音の組み合わせの「熊(くま)」と名付けられたことと関係があるのではないかと思います。
人間の特徴の一つは両手を器用に用いることができる点ですが、それは相当程度サルとクマにも当てはまるのです。
このことがクマの手に注目させることになって「熊手」という縁起物が生まれたのではないでしょうか?
サルについてはどうか?と問われると、クマ以上に人間に近い手より、人間のように毛の生えていない顔が他の動物と異なる最大の特徴とされ、それが「猿面」という縁起物を生み出したのではないでしょうか?
「猿(さる)」を「申(さる)」に置き換えると、「申」は「神」という字を構成し、「雷(かみなり)」の光が走る様の象形文字です。
つまりサルにも神性が認められていたことが窺えます。
「熊手」と「猿面」の誕生の背景に思いを巡らしたのは初めてですが、今のところは、畢竟「神=KAMI」に収斂しうるK+母音とM+母音の言葉に注目していますので、「熊手」について「熊」をいろいろ置き換えてみながら考察をさらに進めていきましょう。
「熊手」の「熊」を「神」に置き換えると「神手」となります。「熊手」は幸運をかき寄せる縁起物とされますが、その意味でも「神手」と言い換えるのも不自然ではないでしょう。
また「雲」に置き換えた「雲手」はどうでしょうか?
前に述べたように「雲」=「雨+云」→「雨+口口口」とし、「龍」を加えると「龗(おかみ)」となり、「龗」の言霊は「神」に重なるとすれば、「熊手」=「神手」=「龗手」ということになります。
他方「龗」は雨をもたらす龍であることが強調された水神なので、「熊手」=「神手」=「龗手」=「水神手」となりますが、日本では蛇が古来よく水神とされてきたので、「熊手」=「神手」=「雲手」→「龗手」→「水神手」→「蛇手」になります。
ただし、蛇に手足はないのでこの想像はおかしいでしょうか?
しかしここで試みに、「熊手」の竹ひごの一本一本を一匹一匹の蛇に見立てるととどうでしょうか?
開悟される時のお釈迦様を後背から立ち昇って守護したことで、仏教に「龍王」として採り入れられた蛇体の水神ナーガにそっくりではないでしょうか?
すると「熊手」に付けられたお多福さんはお釈迦様に対応することになります:
・お釈迦様+扇状に立ち昇る蛇体の水神ナーガ
・お多福さん+扇状に伸びる竹ひご
お多福さんをお釈迦様に対応させることは、結論から言えば可能と思いますが、それにはお釈迦様の開悟とは何かについて述べる必要があり、それは長くなりますので、今しばらくはそこには進まず、次回は再び春日大社に話を戻しましょう。
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