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信長焼き討ち後の恵林寺再建...史料から見る(1):『恵林寺草創年号幷由緒之事』

今回は、織田信長による恵林寺焼き討ち後の経緯を見ることにします。

既に見たように、天正十年四月三日、恵林寺は織田信長の軍勢によって焼き討ちを受けます。焼き討ち後の状態がどのようなものであったのか...一般的な印象では信長によって恵林寺は徹底的に破壊され、焼き払われた、ということになるのですが、丁寧に資料を読んでいくと、それほど簡単ではないことがわかります。
その問題は、改めて『恵林寺焼き討ち事件...史料から見る』の方で順次検討していくとして、今回は焼き討ち後の再建の過程について史料をもとに検討を進めたいのですが、第1回目として、最も詳細で、史実に即していると思われるものを採り上げます。

山梨県史料10:『甲斐国社記・寺記』第2巻(山梨県立図書館)所収の、山梨郡小屋敷村 『恵林寺草創年号幷由緒之事』 恵林寺

標題の通り、恵林寺の歴史をその開創から記録している史料ですが、信長焼き討ち後の再建について、他の史料にはない詳細な経緯が記されています。
以下、原文漢文(白文)を読み下し文にして示し、簡単な語注の後、現代語訳を試みました。
原文はこうした史料に特徴的な独特の漢文体であり、解読が容易でない部分も散見します。ここでは、あくまでも個人的な解読・試訳の試みとしてご理解ください。詳しくは、原典に当たってご確認ください。


恵林寺草創年号幷由緒之事


①読み下し文

其の後、天正十壬午(みずのえうま)年四月三日、織田平公信長は当寺江放火、七堂伽藍及び子院六拾弐院、大和尚五人、西堂和尚九人、喝食拾四人、行者七人、被官(ひかん)四人、右一同悉く焼亡し荒原ニ相い成り候処、同年七月廿五日東照宮様御入国、右焼亡之地江入り御成られ、開山夢窓国師容像及び信玄生前ニ造り置かれ候肉附之不動尊幸ニ回禄(かいろく)仕らざる之躰御感じ遊ばされ、当分之茶の湯料の為六十四俵の田地、及び寺中封彊(ほうきょう)三万六千四百坪、山林壱里四方、右之御朱印頂戴仰せ付かれ、則ち東照宮様再御開基所と相い成り申し候。
其の砌(みぎり)、塔頭岩松院主、已に亡所ニ留り罷り在り候ニ付き、武田浪士一同と東照宮様召し出さるる上意之旨ハ、当寺住持に任ず可き者之れ有る哉と右院主並びに浪士江御尋遊ばされ候処、住持無く御座候由申し上げ奉り候。然者、岩松院主儀、当寺住持取極申す迄開山及び信玄霊前奉持職(ほうじしょく)相い兼ね看務(かんむ)す可しとの上意を蒙り、之に依り四年之間右院主看務罷り在り候。
其の後、天正十四丙戌(ひのえいぬ)年二月、快川弟子末宗儀焼亡之節、山門より飛び、野州雲岩寺ニ罷り在り候を御尋ニ而(しかして)召し帰さる御上意を以て住持仕り候。翌年、駿府江罷り越し、臨済寺鉄山長老を以て願上候処、九月朔日登城仰せ付かり候。則ち(壱束壱本甲州枝柿)進献(しんけん)仕り候。其の後、末宗生国三州江罷り越し、父源入斎を相訪う。夫れ□暫く滞在仕り十一月亦た臨済寺迄罷り帰り滞留仕り候。其の砌、臨済寺長老を以て御訴訟申上候者、去ル午七月東照宮様甲州御入国之節、重ねて旧領之寺産願い出ず可き之旨仰せ下さり誠に有り難き御儀存じ奉り候。就而者(ついては)、今般御訴訟申し上げ候者恐れ入る儀に御座候得共、右旧領仰せ付け下され候御儀御辞退願い上げ奉り候ニ付き、御沙汰御弁済無しニ相い成る由、申し伝え罷り在り候。
其の年、末宗儀臨済寺ニ而越年仕り居り候処、御城従り御年礼相い勤む可く申す之旨仰せ出だされ候ニ付き、十五日登城御目見え仰せ付かり則ち(壱束壱本)進献御祝儀奉り申し上げ候。夫れ□四月迄滞留仕り候処、臨済寺長老御城江御召し出し仰せ付け候えハ、其の方の事、従来生国甲州、殊更薙髪(ちはつ)之頃□恵林寺に於て出家得度之由、旁以(かたがたもって)旧縁之地ニ候得者、今自り本国江罷り越し、末宗と一同恵林寺煨燼(かいじん)之遺趾(いし)を再び相い企む可く荷擔(かたん)之旨上意を蒙り誠に有難き御仁命、其の上旅宿、臨済寺迄の御使者並に白銀拾枚拝領、御懇(ねんごろ)之上意を蒙り御暇(いとま)仰せ付けられ候。之に依り駿府を発足して甲州江罷り帰り、茲に於て右一同煨燼を払い僅かに構える殿宇(でんう)に開山及信玄両像を移し、漸次ニ之を営み申し候...(240頁)


(注)被官:役人。  回禄:中国の火の神、転じて火災のこと。
   封彊:国境、領地の境、土手、ここでは寺領。
   甲州枝柿:甲州干し柿。   薙髪:剃髪。  

②現代語訳

その後、天正十年壬午(みずのえうま)の年四月三日、織田信長は恵林寺に放火し、七堂伽藍と子院六十二院、大和尚五人、西堂和尚九人、喝食十四人、行者七人、役人四人、これらはみな悉く焼き尽くされ荒れ地になってしまったのであるが、同じ年の七月二十五日には東照宮様が御入国され、この焼け跡の地にお入りになって、開山夢窓国師の像と信玄公が生前にお造りになられた「肉附之不動尊」が幸運にも火災を免れていたことに感じ入られ、当座の茶の湯料として六十四俵の田地、そして寺の所領として三万六千四百坪、山林一里四方の御朱印状を発行するようにお命じになり、こうして恵林寺は東照宮様の再御開基所となったのである。
この時、恵林寺塔頭岩松院の院主は、既に焼け跡に戻ってそこに留まっていたので、武田家の浪士たちと一緒に東照宮様によって召し出されたのであるが、東照宮様は、恵林寺の住職に任命するべき人物はいるかと岩松院の院主と武田家の浪士たちにお尋ねになり、住持となるような方はおられないという返答であった。それならば岩松院の院主は恵林寺の住持が決定されるまで、開山夢窓国師と信玄公霊前の「奉持職」を相い兼ねて務めよ、という上意が下され、これにしたがって四年の間、この岩松院院主が看務を務められたのである。
その後、天正十四年丙戌(ひのえいぬ)の年二月、快川国師の弟子である末宗は、恵林寺が焼け落ちるときに山門より飛び降り、下野国(しもつけのくに)の雲岩寺に身を寄せていたところを探し出され、召し帰すようにという東照宮様の御上意をもって住持となったのである。翌年、末宗は駿府にやって来て、臨済寺の鉄山長老を通じてお願いをしたところ、九月一日に登城を命じられた。そこで(甲州枝柿を一束一本)献上したのである。
その後末宗は生まれ故郷である三河に向かい、父である源入斎を訪ねて暫く滞在し、十一月になるとまた臨済寺に帰ってきてそのまま留まることになった。この時に臨済寺の長老鉄山和尚を通じて訴えを申し出たのであるが、それは、去る壬午の年の七月に東照宮様が甲州に御入国された時、焼き討ちになる前の旧領地の寺産の安堵を改めて願い出なさいとの命をいただき、誠に有り難いことであると存じております。つきましては、今般訴えを申し上げるのは恐れ入ることではございますが、旧領安堵の命を辞退いたしたくお願い申し上げますので、お沙汰もお支払いも無くなります、そのことを申し伝えさせていただきたい、ということであった。
その年、末宗は臨済寺で年を越したところ、駿府城より新年の御挨拶をするように命じられ、一月十五日に登城の上直々にご面会であると言いつかったため、(甲州枝柿を一束一本)献上して新年のお祝いを申し上げたのである。そして四月まで臨済寺に留まっていたところ、臨済寺の鉄山長老に登城するよう命じられ、鉄山はもともと甲州生まれというが、とりわけ剃髪の頃には恵林寺で出家得度したというのだから、いずれにしても甲州は縁の深い土地である。今からその本国である甲州に向かって、末宗と一緒に焼き尽くされた恵林寺の跡地で再建を果たす手助けをするようにとの上意をいただき、このような誠に有り難い御仁命だけではなく、その上に旅宿の手配、臨済寺まで御使者そして白銀十枚の拝領と懇ろな上意によって臨済寺からの暇を命じていただいた。こうして末宗らは駿府を出発して甲州に帰り、協力して焼け残りを片付け、僅かに残っていた建物に開山国師と信玄不動の両像を移し、少しずつ再建の営みを始めたのである...



*恵林寺焼き討ちの被害は、七堂伽藍の他には「大和尚五人、西堂和尚九人、喝食十四人、行者七人、役人四人」と、ここでは39名になっています。100名以上という記述は、かなり誇張されたものではないかと思われます。これまでご紹介してきた史料は、どれも百名を超える人数を記していません。

*四月三日の恵林寺焼き討ち後、本能寺の変、そして東照宮様つまり徳川家康が甲州に入り、七月二五日には恵林寺の焼け跡で恵林寺開山夢窓国師像と信玄公が生前に命じて作らせた「肉附之不動尊」に対面していること。
この「肉附之不動尊」とは、「武田不動尊像」であると考えられますが、夢窓国師像、武田不動尊像とも、現在恵林寺に祀られています。

*この時家康は、夢窓国師像と武田不動尊像が焼けずに残されていることに感銘を受け、「当座の茶の湯料として六十四俵の田地、そして寺の所領として三万六千四百坪、山林一里四方」の御朱印状を発行して恵林寺の再開基となった。

*家康はさらに、難を逃れて生きていた恵林寺塔頭岩松院の住職と生き残りの武田家浪士を呼び出して、恵林寺の後継住職についての事情を聞き出し、適任者がいないとわかると自身が後任住職を任命するまで、岩松院の住持が夢窓国師と武田不動及び信玄公の霊牌を護るようにと命じている。

*焼き討ちから四年後の天正十四年二月に、家康は後任住職として末宗瑞喝を見いだして任命するが、末宗は翌年、駿府にやって来て兄弟子である臨済寺の鉄山長老(鉄山宗鈍)を通じて家康に願い出て、九月一日に家康に面会がかない、その時に「甲州枝柿一束一枝」(甲州名物の枯露柿を串柿にしたものと思われる)を献上している。

*九月のこの時にどのようなことが話されたのかは詳らかにはしないが、その後末宗は郷里である三河に向かい、父である源入斎という人物と相談をしている。二ヶ月後の十一月に末宗は臨済寺に戻り、その時に鉄山と一緒に、かつて家康が安堵した恵林寺の旧寺領を辞退する旨の訴えを行っている。
これは事実上の恵林寺再建の断念であり、九月の登城の時に言上された内容は、恵林寺再建の困難であることが推測される。末宗は郷里の実父と相談の上断念の意志を固め、鉄山と共に改めてその旨を申し出たのだと考えられる。

*信長焼き討ち後の再建をになった末宗瑞喝については、伝記的なことがあまり知られてはいないが、この史料からは、三州三河の人であること、父の名が源入斎であるということ、焼き討ちの時には山門にあって野州(下野)の雲岩寺、つまり那須の雲巌寺に身を寄せていた、ということが知られる。

*鉄山とともに行った訴えの回答を待ちながら末宗は臨済寺に留まり、正月の挨拶のために登城するように命じられ、天正十六年(1588年)一月十五日に登城して家康に新年の祝辞を述べ、もう一度甲州枝柿一束一枝を献上している。

*その後、四月に後見役のような立場であった鉄山に登城の命が下り、鉄山の出身が甲州であり、出家得度が恵林寺であったことなどの理由から、末宗とともに恵林寺の再建に当たるように命じられる。その時には、宿の手配がなされ、臨済寺まで使者が立ち、さらに白銀が10枚拝領され、鉄山は臨済寺から暇を得て再建の手伝いに専念することが決まった。

*末宗と鉄山は協力して焼け跡の残骸を片付け、残されていた建物に開山夢窓国師像と武田不動尊像を移して再建に取り組んだ。ここでも、建物はすべて失われてしまったわけではなく、若干残されたものがあったと推察される。これは、恵林寺焼き討ちの史料として検討した『阿波國最近文明史料』所収の『瑞巌寺一鶚』において、山門から飛び降りて難を逃れた湖海らが「煨餘(わいよ)の空房」つまり焼け残りの建物に身を寄せていたという記述と符合する。

*最後に、末宗禅師は、家康と何らかの形で縁がある人物ではないか、と感じられます。快川門下には末宗よりも名が通った傑僧がおり、どうして恵林寺再建という大役に末宗が選任されたか、という点については、若干の引っかかりがあるのです。たとえば、ここで末宗禅師の後見役のような立場で動いている鉄山宗鈍についてですが、末宗禅師と鉄山禅師は、年齢こそ二歳しか異なりませんが、同じく恵林寺で出家をはたした同窓でありながら、鉄山は早くに恵林寺を離れて京都に向かい、快川国師のライバルであった天龍寺の策彦周良の許で修行を続け、天正三年には妙心寺に入寺を果たし、信濃高遠建福寺、駿河臨済寺の住持も務めています。
一方、末宗禅師は焼き討ちの前年、天正九年の時点でもまだ「座元(ぞげん)」つまり第一座ではあっても修行僧の立場です。
末宗禅師は天正の兵燹によって失った道号頌を、後に同門の南化玄興禅師に書いてもらっているのですが、実はこの南化禅師は末宗禅師よりも年下で、天正元年には妙心寺に入寺を果たしています。
つまり、快川国師の門下には優れた禅僧が綺羅星の如く集まり、その中にあっては末宗禅師は遅咲きの禅僧であり、快川時代の全盛期の壮観をその身を以て知ればこそ、おそらくは恵林寺再興という大役は自身ではとても叶わないことであろうと思われたのではないでしょうか。
このあたりも、今後の検討課題の一つです。



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